杉本純のブログ

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根拠なき熱血指導

以前、ある先輩ライターが、自分は後輩が出してきた原稿を二、三行読んだだけで差し戻し、書き直せと言った、と言っていた。どうやら、書き直さなくてはならない理由は伝えず、ただお前の文章はまったくなってないからもう一回書け、という意味のことを言ったようだ。

その話を聞いた時、私は、近ごろの二十歳代のライターは生温いと思っていたので、先輩のやり方を、勇気ある熱血指導だなぁと思った。先輩も先輩で、どこか誇らしげな顔をしていたと記憶している。

けれども私は今は先輩は間違っていたと思う。ダメならダメで、どこがどういう理由でダメなのかをきちんと言うべきだった。

この手の乱暴なライター指導を、私自身も過去に受けたことがある。ある広告文を書いたのだが、何度出してもろくに読まれず、書き直しを命じられた。その相手は、情緒がないとかなんとか、抽象的な指摘をしてきただけだった。しかしどんな言葉にも情緒はあるのであり、もしそれでも情緒が感じられないとするなら、自分はこういう文章にしたいんだという意思を私に伝わるように言い、お前の書いた文章のこの部分にはそれが欠けている、などときちんと言うべきだ。だがその相手にはそんな考えはなかったようで、そもそも、とにかく私自身の仕事が気に入らないという個人的感情があったように思う。

こういう根拠の薄い熱血指導は、虐待に近いのではと私は思う。似たような指導は世の中に多い。「つべこべ言わずにやれ」「理由は後からついてくるんだから」などなどだ。

もちろん、クリエイティブの世界には全般的に(他の業界でもそうかも知れないが)、そういう虐待を繰り返すことで仕事の質を高めようとしてきた経緯があるのは何となくわかる。また、そういうのを一種の「文化」として容認する向きは、今でも一部の人にはあるのではないか。しかしそれは、少なくとも今の世の中ではもう通用しなくなっていると思う。

私自身、昔はそういう厳しい指導を自ら求めるような、一種の被虐趣味を持っていた。学生時代や社会人になってからもそういう態度を続けていたが、振り返ると、その態度でいたことで得たものなどなかったと思う。むしろ、膨大な時間と労力を空費したに過ぎなかった。

以前、人材育成を研究する大学の先生にインタビューしたことがある。その人は、日本企業でそうした根拠なき指導が受け入れられるのには理由があると言っていた。まず、指導される側がその会社に長く勤めようと思っている、次いで、長く勤めればその分だけ見返りがある、そして、失敗しても守ってくれる人がいる、ということだ。そして先生は、それは言わば昭和のモデルで、今は崩壊しつつあると言っていた。その通りだと思う。

本当に後輩を思って熱血指導をするなら、きちんと根拠を述べて説明するべきだ。そして、普段から勉強するのを推奨するべきだ。そういうことをしないのに、ただ原稿を差し戻して書き直せなどと言うのは、ようするに指導者としての怠慢である。また、ダメな原稿のダメな部分を相手にわかるように指摘できないのは、当人もライターとして低レベルなのだ。そんな人の下に付いてしまった後輩は不幸である。

もちろん私は、二十歳代の人びとは何度も原稿を書き直さなくてもいい、歯を食い縛らなくてもいい、などとは思っていない。