杉本純のブログ

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ライターと文才

ある人がTwitterで、自分は文才がないからライターになれない、と書いていた。しかし、ライターになりたいと思っている中で、文才のあるなしでライターになる・ならないを決めようとするのは、ちょっと損じゃないかな、と思った。

極端に言ってしまうと、ライターという職業は資格ではないし、文才のあるなしもあまり関係なく、名刺にでも記せばその日から誰でも名乗ることができる。文才というのは定義がいろいろあるだろうけれども、例えば、文章の上手い下手がライターになれる・なれないを左右するわけでもないだろう。

ライターを名乗る人が、語彙が貧弱で、文章構成もめちゃくちゃ、誤用も多い、という例は少なくない。いつもならきちんとした文章を書ける人がある時調子を崩してしまう、ということもある。得意分野の取材や文章なら上手いが不得意なところだと駄目、という人もいる。このように、ライターの能力や価値はきわめて相対的と言えると思う。

私が考える「才能」はモーパッサンの言う「継続する情熱」で、文才がある人とは文章を書き続けられる人だといって差し支えないと思う。上手く書ける時があればそうでない時もあるだろう。文才がどうのと言う前に、ライターをやりたいとか、文章を書きたいという欲求の方が重要ではないか。