杉本純のブログ

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作品丸写し修行について

阿部昭の対談集『短篇小説を語る』(福武書店、1987年)をぱらぱら読んでいたら、辻邦生との対談の中で、辻が小説を原稿用紙に写した、という話が出てきた。

志賀直哉の『剃刀』とか『網走まで』とか、ただ読んでいるだけじゃ、そこに表現されたものを身体でとらえられないものだから、小説を原稿用紙に写したんです。原稿用紙に書かれた字が、活字になるとこういう効果があるんだなというようなことを考えながら……。

北方謙三先生も修行時代に小説を筆写したことがあり、その最初の作品は志賀の「城の崎にて」だったそうだ。志賀、すごい人気ではないか。

この「作品丸写し修行」の話は、すぐには思い出せないが他にも色んな作家がしていたように思う。しかしこの修行、果たして効果があるんだろうか。

私は映画学校に入る前、学校説明会で今村昌平の助監督を務めたことがある講師と話し、シナリオが上手くなるための最高のトレーニング法として、名作の丸写しを教えられた。私は、これはいいことを聞いたと思い、複数の作品を丸写ししたのである。

依田義賢西鶴一代女』、植草圭之助黒澤明酔いどれ天使』などなど。今村昌平天願大介『おとなしい日本人』なんかも写した。

しかし、それでシナリオが上達したかというと、私の経験に限っていえば、まったく上達しなかったと言っていい。『西鶴』は監督の溝口健二の代表作と言われる名作だが、シナリオの手法としては「団子の串刺し」と呼ばれるもので、同じようなエピソードを並べるだけの、技術レベルは低い作品である。とまれ、私はこの作品を丸写ししても同じようなシナリオが書けるようにはならなかったし、「団子の串刺し」も体得できなかった。

小説の丸写しでは森鷗外山椒大夫』や大江健三郎「奇妙な仕事」などを写し、他にもいくつかやったと思う。バルザックの「ざくろ屋敷」(水野亮訳)は中途で挫折した。しかしやはり小説のストーリーテリングや文体などを体得することなどまったくできなかった。ただ、名作を写し終えた時の達成感だけはあった。私は写経はやったことがないが、写経と似たようなものかも知れない。

もう一つ、名作の音読も学生時代にやった。芥川龍之介羅生門」や谷崎潤一郎「刺青」などを、毎朝一回、正座して読んだのだが、これも何の効果もなかったと思う。

まったくもって、修行時代というのは無駄なことの繰り返しだった。まあ…振り返ると、修行とはたいていそのようなものなんじゃないかとも思う。もちろん、あくまで私の経験に限ってのことである。私は、丸写しや音読をやりさえすれば上達すると思い込んでいたところがあった。