杉本純のブログ

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佐伯一麦と八木義德

佐伯一麦は1983年、高校時代に書いた習作を直した「静かな熱」で「第27回かわさき文学賞」入選を果たした。選者には芥川賞作家の八木義德がいた。

二瓶浩明の佐伯年譜によると、佐伯はこの時期、上京後から携わっていた週刊誌ライターを辞め、さまざまな仕事をした後に電気工の定職に就いていた。しかしこの頃、とてつもない激務が続いていたようだ。福武書店の『八木義德全集 8』の月報には佐伯の寄稿「八木さんに選んでいただいた処女作」があり、「かわさき文学賞」入選前後のことが書かれている。これによると、佐伯は仕事があったので「かわさき文学賞」の授賞式(寄稿には「受賞式」と書いてある)に行けなかったらしいのだ。

佐伯は上京後間もない頃、中野サンプラザ内の図書館で八木の「風祭」を読み、心打たれて、小説が書きたい、と思った。文学を志して上京した佐伯のそれまでの目標は、武田泰淳に関する論をまとめることだったが、中上健次や八木の小説を読んで、小説の実作を志すようになったのである。

「かわさき文学賞」に応募したのは5万円という賞金に魅力を感じたこともあるが、それ以上に、八木義德が選者だったことが大きいと佐伯は述べている。佐伯の人生をこれほど動かしたのだから、八木の存在は佐伯にとって絶大であったのは間違いない。その恩人に会える最良の機会だったはずの授賞式に出席できなかったというのだから、やはり仕事がよほどの激務だったのだろうと推察できる。

結局、佐伯が八木に初めて会えたのはその4年後の1987年3月末である(八木全集月報の佐伯寄稿から察するに、「初めて」と見て間違いない)。川崎駅近くの小料理屋で「かわさき文学賞受賞者の集い」が行われ、選者の八木を囲む歴代受賞者の一人として佐伯も参加したのだった。この頃佐伯はすでに「木を接ぐ」で本格デビューしており、その年の「新潮」5月号に載せる八木の小説集『命三つ』の書評を書いていた。そのことを八木に告げると、八木は「そうか、君の小説を選んでいて良かったなァ」と言ったそうだ。

当時の「新潮」編集長は坂本忠雄である。坂本は八木に、『命三つ』の書評は若い人に書かせたよ、と言ったらしい。八木と佐伯の関係性について知っていたのだろう。