杉本純のブログ

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スティーヴン・キング『書くことについて』

スティーヴン・キングの『書くことについて』(田村義進訳、小学館文庫、2013年)を再読している。やはり得ることが多い。

私の考えだと、優れた作品は出来事ではなく、つねに人物にかかわるもので終わっている。つまり人物主導ということである。ただし人物描写に関しては、短篇(二千語から四千語)以外、さほど信を置いていない。結局のところ、ボスはストーリーでなければならない。どうしても人物描写に意を注ぎたいのなら、伝記本を読むなり、地元の大学の演劇部のシーズン・チケットを買うなりすればいい。必要なキャラクターはそこですべて手に入れることができる。

私は文学を「人間を描くもの」と考えていたが、漱石の小説をぜんぶ読んだ(学生時代に。あの頃はとにかく熱意だけは強かった…)こともあり、心理描写とか来歴の説明、つまり人物描写に大部分を割こうとする傾向が強かった。

しかし上の記述を読むと、キングはあくまでストーリーに従属させる形で人物描写をするよう考えているのがわかる。その通りだと思った。文学は「(ストーリーを通して)人間を描くもの」と考え直した。

またこういう箇所。

“その日、アニーは自殺しかねないくらい落ちこんでいた”とか、“その日、アニーはとりわけ上機嫌に見えた”とか書くのは厳禁である。そんなふうに書いたら、その時点で私の負けだ。逆に、乱れた髪に櫛を入れることもなく、ケーキやキャンディを憑かれたように貪り食うシーンの描写によって、アニーは鬱状態にあると読者が判断してくれたら、私の勝ちということになる。

アニーは『ミザリー』の主人公である。これなどは言わずもがな、小説を書く上では誰だってそうするだろう、と思うのだが、私はけっこうこれができていなかったと思う。私は新人賞に落選した小説で、青春不完全燃焼で憔悴している主人公について「僕は、途方に暮れていた」などと書いたが、“その時点で私の負けだ”ったのだと恥ずかしくなった。