杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

こじらせワナビの回顧2

近く、小説集を出す予定である。これは過去の作品を直して印刷する私家版、要するに自費出版なのだが、修正は大幅に行うつもりだ。もっとも、自費出版ビジネスをやる出版社に大金を出したりはしない。

それで過去に書いた物を目下修正しているところなのだが、当時の自分に思わぬ盲点があったこと、視野が狭かったために小説が貧弱になっていたことを切に感じている。

さて、私はこれまで、小説集を出した後は、このブログでは宣伝するもののそれ以上のことをしようとは思っていなかった。しかし、文学フリマなどもあることだし、どうせならそういうアナログの場で直接人に渡すこともしてみようかしらと考えるようになった。

こういうことは、これまで考えもしなかったことだ。

どうしてかというと、私には、フリマなどに出品するのを恥とするところがあった。ネットや同人誌で細々と小説を書いていたが、作品だけで評判を得て華々しいデビューを飾ろうと思っていて、自分にはそういう力が十分にあると信じて疑わなかった。

そういえば、同人誌を置いてもらうべく書店に交渉したことはあったし、別の文学同人の人も集まる会合などにも出掛けたことはあったが、それ以上のことはしなかった。自作を必死になって宣伝するのを恥とする、一種の作家気取りがあったのだと思う。

今思うと、ヒジョーに馬鹿だった。自意識過剰だった。

華々しくデビューしようと思っていた割には、自作が人に笑われたらどうしようとも思っていた。シコシコ小説を書きながらも、結局、作品が人目に晒され、容赦なく批判されることにはどこか恐怖心を抱いていたような気がする。

これまでの経験から言えるのは、どうやら、小説を書いたり、文学をやったりしている人には、こういう自意識過剰な人が多いということだ。これは恐らく、文章にはそれを書いた当人の内面を表してしまう一面があって、だから当人はそれが人の目にどう映るかが気になってしまうのだろう。まあ小説に限らす作品を発表する人はそうなるのかも知れないが、作品が人から褒められれば自分という人間を受け入れてもらえた気がしてうれしくなり、貶されれば自分を丸ごと否定された気がする。

物書きになろうとするなら、貶されてもめげない強さが必要だと思う。