杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

樫原辰郎『『痴人の愛』を歩く』

樫原辰郎『『痴人の愛』を歩く』(白水社、2016年)を読んだ。

いやー面白かった。『痴人の愛』を読んだのはもう二十年近く前になると思うが、本書を読み進めるにつれて小説の内容の記憶が甦り、なおかつ「ああ、あの箇所にはこういう背景があったのか」と驚きと共に認識が深まった。こんな読書体験は滅多にない。

本書は『痴人の愛』成立の背景を実証的に提示あるいは推定しており、読み応えがある。谷崎というと、すぐにやれマゾヒズムだ母恋いだと言われるが、本書にはそういう先行の批評に押し流されているところはない。

なかんづく私としては、谷崎が自分に寄りつく文学青年を退けていたことが面白く、谷崎の藝術および藝術家志望者への態度からいろいろ考えたし、学ばせてもらった。

また、今や調べ物をする上でネットの力がかなり大きくなっているのを再認識した。私もかつてゲーテに関する調べ物で電子化された古書をネットで閲覧したが、電子化は今後ますます進むだろうから、わざわざ図書館に足を運んでコピーして、などということはなくなるかも知れない。映像作品も同じだろう。

著者の樫原氏が作家でも評論家でもなく映画の人だというところがまた面白い。だからこそ、この本を書けたわけだ。

誤植がいくつかあったがそんなのは瑕瑾である。面白かった。

仕事と愛情

お客さんにせよ同僚にせよ、仕事で大事なのは相手にきちんと価値提供することで、愛情を注ぐことでは必ずしもない。お客さんに愛情を持って接するのはすばらしいことで、そうするに越したことはないが、いくら相手に愛情を持っていてもミスをするのは良くない。逆に、愛情を持っていなくてもミスをしなければ良い。それは、まあ当然だろう。

しかし、仕事相手(特にお客さん)には愛情を持たなくては駄目だ、という人がたまにいる。それは、その人の心掛けとしては悪くないと思う。ところが、そういう人を冷静に見続けていると、単に好きな客にだけ愛情を注いでいるだけで、好きでもない客の場合はかなり杜撰な仕事をしていることが少なくない。こういうのはどうかと思う。

愛情を持たなくては駄目だ、という人は往々にして理非がない。私の知るある人は、ニュースになるくらいの大事件を起こした顧客企業のことを、その会社は正しいのだ、という風に言っていた。たしかにその会社は必要以上に悪く言われていた面はあるだろうから、その人が愛情ゆえに擁護したくなるのは理解できる。しかし、その企業に批判されるべき点があったのは歴然たる事実なのだ。私は、いくら愛情があってもその点を看過することはできない。

愛情を持つのは大切。けれども愛情によって理非がなくなるのは好きじゃない。

恋愛観

大学生の頃、長篇恋愛映画のシナリオを書いて日本シナリオ大賞に応募したが、受賞できなかった。また以前、仕事で小説の執筆をした時に、編集長から「純愛」をテーマに書け、と言われ、青春小説ながらそこに異性への恋愛めいた思いを入れて書いたことがあったが、果たしてそれが「恋愛」と呼べる感情だったかどうか、今も自信がない。

その頃のことを思い返すと、たぶん私はまだ恋愛というものに憧れを抱いていたように思う。それはきっと、恋愛をするのは人間として至上の行為であり、それをしない人は軽蔑されるべきだ、というような思い込みがあったからだと思う。しかし、まぁそんなことは全然ないだろう。

年齢とともに経験も重なってきた今、思うのは、「恋愛」という行為には相手の心を奪おうとする側面がある、ということで、自分は小さな頃から、人に心のみならず何かを奪われることをひどく恐れていて、だから恋愛という行為には向いていないということだ。

以前誰かが、恋愛は、相手を楽しませ、自分を楽しませ、良い思い出を作っていく知能ゲームだ、と言っていたが、言い得て妙だと思う。恋愛には確かにゲームの側面があると思うし、「楽しませる」という部分が、ハラハラドキドキ、ワクワクすることを含んでいる。それはすなわち「心を奪う・奪われる」ということにつながるのだろう。

そういうのがどうも苦手なのだ。

私は書く。

今、小説の執筆に取り組んでいるのだが、会社勤めをしながら毎日書くのは楽じゃない。。

公私ともに、それなりにやることがあって忙しいし、正直に言って、それだけでけっこうくたくたになる。二十代の頃は徹夜ばっかりしていたので遅くまで起きて忍耐強く取り組むのには慣れているが、小説は忍耐すれば書けるというのもでもないので難しい。

毎日原稿に向かっていれば、小説の世界は手元にある感じだが、一日サボると、すでにい小さくなるくらいまで遠ざかっている気がするし、二日サボればとっくに見えなくなっている。三日サボれば、もう内容を忘れているほどになっている…そんな感覚に陥る。

オスカー・ワイルドアンドレ・ジッドに、この世には二つの世界がある、一つは現実の世界でこれは話さなくても存在している、もう一つは藝術の世界でこれは話さなくてはならない、話さなくては存在しないのだから、と話したことを澁澤龍彦『快楽主義の哲学』(文春文庫、1996年)で知った。たしかにワイルドの言う通りで、絵でも音楽でも小説でも、創らなくてはその世界はこの世に存在しない。

だから、書かなくてはならない。私は書く。ただそれだけ。

書いて前進するしかない。

最近、「下手の考え休むに似たり」という言葉を知った。碁や将棋の下手な人が長時間考えているのは休んでいるのと同じ、といったことから、良い知恵を出せない人が考え込んでも効果はない、といった意味だ。

これは小説を書くことにも通じるのではないか。ストーリーを展開させるアイデアが出ず悶々とすることはあるだろうが、たいていは考え込んでもたぶんアイデアなど出てこない。考えて出てくるようなアイデアならトイレか風呂にでも入っている時にフッと降りてきそうな気がする。私もある地点から進めず、考えに考えて結局出てこなかったことが何度もあった。

考え込むよりも、どんな方向へでも書き進めてみる方が大事であるように感じる。小説を書き進めるのは、穴を掘り進める行為に似ているのではないか。図面があって、ある程度の方向はひとまず分かっている。しかしどちらに行けば金鉱に当たるかなど細かい正確なことは分からないので、とにかくあとは掘って掘って掘りまくって進めるしかないように思う。

また、どうやらこちらの方向へ進むのは間違いなようだと気づくことがある。これだと矛盾する、あまりに退屈になる、人物をきちんと描けていない、などなど。そういう場合も、やっぱり考え込むより再び書くことだ。全体を見渡せば、だいたいどこらへんに欠陥があるかはわりとすぐに割り出せるように思う。そういうことは私もたびたび経験した。あるいは、そもそもこの話そのものがどう考えても面白くない、という絶望的な結論に至ることもある。穴掘りに例えるなら、もうその工事そのものを抛棄するしかない状態だが、それも私は体験したことがある。

絶望的な作品でも、もしかしたら考えに考えることで救い出せて傑作に生まれ変わらせられるかも知れない。しかしそんなのは稀で、基本的にはやはり考えるよりも書くことが大事だと思う。

毎日書くこと6

大沢在昌『小説講座 売れる作家の全技術』(角川文庫、2019年)を読んでいる。これは、2012年に角川書店から出た単行本に加筆修正したもの。

その中の「作家になるために大切な四つのポイント」は、1正確な言葉を使う2自分の原稿を読み返す3毎日書く4手放す勇気を持つ、の四つである。

3毎日書く」には、ドラマなどに、〆切間際に徹夜して書く作家が出てくるが、そんなプロはおらず、毎日決まった分量を書く習慣を身につけることが大切、と述べられている。そして「毎日くり返すことでしか、作家の人生は前に進みません。」とある。

また、私にとっては耳の痛い、こんな箇所が。

車のエンジンと同じで、一旦冷えてしまうとなかなか回転が上がらないんですね。一日一枚でも書いていれば、アイデアも出やすくなるし、すぐに作品世界に入っていける。「毎日書く」のは重要なことなのです。

書かない日が数日続くと、作品世界は遠く隔たってしまう。ふたたびその世界に入っていくのは大変だ。やはり毎日、机に向かって書く習慣を身につけなくてはと思う。

書くことでしか物書きは前進できない。仕事が忙しいから、などというのはぜんぶ言い訳でしかないのだ。

羨望、心酔、片思い…

これまでの人生を思い返してみると、何かと人の優れた部分に羨望を抱き、あるいは自信に溢れた人に心酔し、恋愛でも友情でも片思いをしたりと、他人に振り回されることが多かった。

これらはすべて(まだ他にもあるだろうが)、他人に心を奪われてしまうことだ。これに陥ると、自分を見失い、他人を追い掛けるばかりになり、ひいては人生の損失になると思う。できれば、そういう状態にはならない方が良い。

しかし、自分以外の何かに憧れ、焦がれ、追い求めることは人生の醍醐味でもあるから厄介である。何にも心を奪われず、少しも動揺せず、他人を追い掛けたりしないのだとしたら、それはなんとつまらない人生だろう。