杉本純のブログ

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創作雑記15 山

本宮ひろ志『天然まんが家』(集英社文庫、2003年)に、こうある。

 最近の若いマンガ家の読み切り作品を読んでいると、とにかくストーリーを盛り上げていく山がない。
 事件が事件を呼び起こし、どんどん盛り上がって山場を駆け上がっていき、話が終わっていく……。こうした感性は、映画や小説など、どんな表現でも同じだと思うが、マンガに山を作らないこと自体、信じられない。
 私の場合、読み切りを考えるときに最初に山を設定してページ割りしていく。そこまでいく間にページが埋まりそうなら、いらないところを削って作り直す。とにかく重要な山だけは、むしろ膨らませ、ページを増やしていくようにするわけだ。
 どうしても山がうまく作れないときには、しかたないから火事を起こしたり嵐にしたり、お盆やお正月という設定にしたりする。黒澤明の映画にしても、山場のシーンはいつも嵐になったり大風が吹いたりしていた。
 マンガというのは、とにかく読者に読んでもらわなければならない。
 だから、山というのは、できるとかできないとか、テクニックがあるなしにかかわらず絶対に必要なものだ。山を作るのは義務だと思っているし、山がないんなら最初から描くな、それができなかったらマンガなんてやめちまえ、というくらい重要な要素だと信じている。

引用部の出だしは、どこか「最近の若いもんは…」といった趣だが、今なぜか私にはとても新鮮でなおかつ含蓄ある言葉に思える。

リアリズムを貫こうとすると、ストーリー構成上の作為がしばしば嘘っぽくなってしまい、敬遠したくなる。私はかつてそんな風に感じていた。

話はリアリズムで進む。結末に向かって。それはいい。しかし、結末でカタルシスを得られるようにと、クライマックスを劇的な感じがするよう盛り上げなくては…と思ってしまうのだ。それで主人公の心理を稠密に描写し、劇的な感じを出そうと息んで書く。しかし数日経って読み返すと、あまりに嘘っぽい。観衆を泣かせようとしている歌手が自分で泣いちゃってるみたいな、実に馬鹿な感じがするのだ。それで、そういうところをばっさり切り落としてしまっていた。

これは山とか盛り上げについて誤解していたのだと、今は思う。ハラハラドキドキさせりゃいいってもんじゃなく、静かに盛り上がる山場もあるわけだから、リアリズムでいくなら、淡々とクライマックスに迫っていってもいいはずなのだ。私はいま私小説を書いているが、いわゆる山、クライマックスは日常の中を微風のように過ぎていく。恐らく山というのは、テーゼとアンチテーゼの最終決戦であって、それが静かに行われることもあるのだ。それがわかってからというもの、ストーリー構成が少し楽になった気がする。

そういう私の見解は、リアリズムのストーリー構成に関わるものだ。少年マンガなどの場合は、恐らくそうはいかないんだろうと思う。