杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

全部は細部を超越する

佐伯一麦の『月を見あげて 第二集』(河北新報出版センター、2014年)の「鶯と雲雀と」には、鶯と雲雀に関する話題から谷崎潤一郎の『春琴抄』の話になり、同作に対する川端康成の指摘を紹介している。

川端は、『春琴抄』は「ただ嘆息するばかりの名作」だが、主人公の春琴が飼っている鶯と雲雀の箇所は薄手に感じられると疑問を呈した、と佐伯は紹介し、なおかつ川端の指摘に同意している。そして、『春琴抄』は谷崎が調べたり聞いたりしたことを想像力によって誇張した感がある、と述べた上で、

インターネットなどによって情報量が飛躍的に増した現代の小説にも、その弊はありはしまいか、と自戒をこめて思う。

と言っている。そして最後に「作品の信用というものは、小さな隙間風にも揺らぐのである」という川端の言葉を引用して締めくくっている。

これを読んで私は宮原昭夫の『書く人はここで躓く!』増補新版(河出書房新社、2016年)の「神は細部で罰したまう」を思い出した。

宮原は「神は細部で罰したまう」の中で、「神は細部に宿りたまう」とよく言われるが、だからこそ逆に細部を疎かにすると痛い目を見るぞ、という風に述べている。

私は『春琴抄』の鶯と雲雀のくだりについて川端や佐伯が感じたことを感じなかったが、川端の指摘はまさに「神は細部で罰したまう」ではないかと思う。

しかし、細部にミスがあっても名作は名作なのだろう。『レ・ミゼラブル』など、ジャン・バルジャンがあまりに超人的なところなど、やはりおかしいと思うのだが、それでも全体に名作たる力があると感じる。細部がダメでも全部が良ければ名作、ということか。