大阪に行ったので、道修町の少彦名神社の入り口にある「春琴抄の碑」を見に行った。
谷崎潤一郎の小説「春琴抄」の主人公・春琴はほんとうの名は鵙屋琴、大阪道修町の薬種商の生れである。この文学碑はそのことにちなんだもので、碑の字は菊原初子という、谷崎邸に出稽古に行っていた地唄箏曲の人間国宝が書いている。
さて、この碑でそうした説明文を書いているのは四天王寺国際仏教大学教授だった三島佑一という人。文中には「春琴抄」は「日本近代文学史上屈指の名作である」とある。
私は「春琴抄」を名作とは思っていないが、かつては名作だと思っていた。というよりも、「名作だと思わなくてはならない」と思っていた。
他にも、夏目漱石の『心』や芥川龍之介の小説なども名作だと思っていた。映画だと黒澤明や小津安二郎の作品は名作だと思おうと思っていたし、キューブリックの『2001年宇宙の旅』などもそうだった。しかしいずれも、今はそんな風には思っていない(一部例外はある)。
この「名作迷妄」はとーっても厄介である。周囲の人や評論家などが名作だと言っているが、自分は特に面白くないけれども、自分の感性が劣っていると思われたくないので、つい自分も名作だと言って(思って)しまうのだ。それどころか、もし周囲の別の人が「つまらない」とでも言おうものなら、その人に「お前はわかっていないんだ」などと言ってしまうのである。
人間というのは弱い生き物なので、周囲が名作だと言っているのに逆らって孤軍奮闘することは難しい。「名作迷妄」はその弱さに入り込んでくるものであり、一種の宗教的な思い込みだと思う。
私はこの「名作迷妄」に長いこと毒され、正直に言うと、今もまだ抜けきらない部分があるかも知れない。けれども話は簡単である。つまらないものはつまらないと正直に言えばいいのだ。