杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

「やらないこと」を決める

やることが多過ぎて時間がない。焦燥に駆られ、会社の仕事が終わってからも遅くまでライフワークに勤しんでいる。このブログの執筆もその一つである。やりたいことなので苦とは思っていないが、楽ちんでお茶の子さいさいというわけでもない。ブログ執筆だけならできるが、今はそれ以外にも取り組んでいることが多数あるので余計である。

こないだ、24時間を一本の線にし、1時間ごとに目盛りを付けて自分がやりたいことを割り当てていったら、24時間を軽くオーバーしていた。このことは別に以前から分かっていたことではあった。これまでは、睡眠時間を削るなど体力に物を言わせ無茶をして乗り越えていた。が、この生活を今後もやり続けるのは無理だろうと思う。

ある人が、目標達成するなら「やらないこと」を決めるべき、と言っていた。やりたいことは多いし、どんどん増えてくるものだから、足し算であれもこれもと積み重ねたら24時間をオーバーするのは目に見えている、というわけだ。考えてみれば単純かつ簡単なことだが、これができていない人が多いと言う。私もそう。。恥ずかしいことだが、「やらないこと」はあまり考慮してこなかった気がする。

本の連鎖

読書マップとかそういう名前の、一冊の本から関連書がどんどん枝分かれしている読書案内みたいなツールがあるが、読書生活で悩ましいのはまさにその枝分かれで、一冊読むとさらに読まなくてはならない本が何冊も出てくるのだ。ちょっと興味が湧いたので一冊読んでみて、読んで終わりにしようと思っていたらさらに深く知りたくなってしまい、当該書の関連書を読む必要が出てきて、延々と続いてしまう。例えばお金のことを知りたくて一冊手に取ってみたら、ユダヤ人とかバビロンの大富豪のことなどに興味が湧いてしまい、それらに手を伸ばす、といった具合である。

本というのはそもそも連鎖しているもので、例えば私が一冊出したとしたら、その背後には無数の本が存在している。立花隆がたしか、一冊書くのに五百冊は読むと言っていたはずだが、つまり立花の本の背後にはゆうに五百冊を超える本があるということだろう。あまり読書せずに書いた本は、それくらいの内容しかないと思う。

エミネムの歌みたいだが…

このブログで前に何度も書いたが、物書きの仕事は毎日やらないとダメで、一日でもサボるともうその仕事は手から離れて遠くへ行ってしまう。二日やらなければもう忘れてしまい、三日空くと頭の中はもう完全に別のことで埋まっている。

物書きが取り組む作品は、ノートに書かれた断片的なメモや草稿を除くと、この世に存在していない。メモや草稿は完全な形になっていないので他人にはまったく価値がない代物である。完成するまでは物書きの頭の中を漂っている観念でしかないから、当然である。

エミネムの歌じゃないが、絶対に文章を手離してはならない。脳裡に閃いた作品の世界を見失っては絶対にダメなのである。だから、毎日、書き続けなくてはならない。

佐伯一麦と大庭みな子2

過去の文藝誌を図書館で借り、研究している作家の寄稿や関連記事を見つけてはコピーしている。そんな中、たまに、目当ての記事を探して同年同月の複数の文藝誌をのぞくと、不意に予期していなかった興味深い記事が見つかったりするので、面白いのだが、この調子で過去誌を探るといったいどれくらいその手の記事が出てくるんだろうと思ったりもする。

今回見つけたのは、「新潮」1995年6月号の佐伯一麦「反響するもの」である。その内容は、大庭みな子『もってのほか』の書評なのだが、佐伯はこれを北欧への旅の行き帰りの機中で読んだらしい。寄稿の中身は書評というより感想で、ノルウェーのテキスタイル作家との思い出の方が比重が大きい。

佐伯一麦と大庭みな子といえば、大庭は「海燕」新人賞で佐伯の「木を接ぐ」を選んだ選考委員の一人である。

懐かしい高揚感

先日、予期しなかった休暇があった。意味が分からない人が多いだろうが、ここに詳しくは書かない。

とにかく不意に休暇が訪れたのである。そのことに、最初、ちょっと戸惑った。いつもなら朝から晩まで忙しく働くのだが、唐突に生まれた、まとまった時間をどう使おうかと思ったのである。

映画でも観ようか…と思った時、なんだか妙にわくわくした。それは子供の頃に味わった覚えのある、初めて遊びにきた場所で感じたような、懐かしい高揚感だった。

思うに、子供というのは大人ほど時間やお金に縛られていない。大人になると、一日のうちで自由になる時間はないに等しい。自分の時間を確保できたとしても数時間くらいだし、あとどれくらい経ったら義務に縛られる時がくるかも分かっている。それは好ましいことではないが避けられないことも分かっている。だからこそ、自分の時間を趣味や遊びに使って少しでも義務の忍耐を忘れようとするのではないか。意識高い系の人なら、勉強や自分のビジネスに使うかも知れない。

私はその時けっきょく映画を観なかったのだが、あの高揚感は印象深かった。時間にもお金にも縛られなくなった時、ああいう、子供の時のような高揚感を得られるのかもなぁ…漠然とだが、そんな風に思ったのである。

その作品は誰のものか。

ディーン・R・クーンツ『ベストセラー小説の書き方』(大出健訳、朝日文庫、1996年)の第一章は「偉大な名作を書く」というもので、ここでクーンツは「純文学」、いうなれば高尚で藝術的な作品を書こうとする態度を批判している。

また同じ章の中に、テレビの現場の集団制作の中で物を書く作家、つまり脚本家についても述べているところがある。

真の作家をめざすのなら、テレビを中心に仕事をすることはすすめられない。もちろん例外もあるだろうが、テレビの脚本は純粋には芸術とは言いがたい。本質的にひとりの知性や感性による作品とは考えられないからだ。原作者のほかに無数の人間が作品に手を加え、まったく書き変えてしまうことすらある。プロデューサー、アシスタント・プロデューサー、ディレクター、番組編集者、スタジオの幹部、局の幹部、局おかかえの検閲官、そして必要のあるなしにかかわらず原作を修正するために雇われたスクリーン・ライターなどなど。テレビでものを書くということは、雑多な構成員の集団で作業することになる。このような集団に、ひとつの目的を追求するひたむきさや、芸術の創造に不可欠な魂があろうはずはない。

これを読み、ライターとして、つまり「集団」制作の中で文章を書いている私は、考えさせられた。

一般にライターという仕事は、クライアントや編集者の様々な要求に応える形で文章を書く。時にはデザイナーから文字数を指定されることもあるだろう。クライアントも編集者もデザイナーも、それぞれ目的と事情があり、それらの思惑を一つの文章に落とし込む作業は往々にして難しい。無理難題、抽象的で無茶な頼みを振られることも少なくない。めちゃめちゃに赤字修正を入れられることもある。

もちろん小説家だって編集者の修正指示を聞かねばならないだろうし、読者の期待を意識することもあるだろう。だから辛いことは変わらないはずだが、自分の名前で世間に文章を出す、という点がやはり大きな相違だろうか。書いた物は誰の物か。自分か、他人か、ということかと思う。

佐伯麦男

佐伯一麦はデビュー前に「佐伯麦男」というペンネームを使って小説新人賞に応募していた。佐伯としては、梶井基次郎檸檬」の主人公が、爆弾に見立てた檸檬丸善に置いたように、自分自身も文学の世界に爆弾(麦男=ばくだん)を仕掛けるつもりで作品を投稿していたのだ。

私は佐伯の随筆を通して、佐伯がかつて使っていた名前「麦男」の存在を知り、時間を見つけては調べていたのだが、今回やっと見つけることができた。佐伯がデビューする前に公募型新人賞を行っていた文藝誌をかたっぱしから調べれば、もっと早く分かったかも知れないと思う。

手掛かりになったのは佐伯の『石の肺――僕のアスベスト履歴書』(岩波現代文庫、2020年)である。これは、佐伯が味わったアスベスト禍の実態を綴ったノンフィクションで、当然ながら佐伯の伝記的事実がふんだんに盛り込まれている。その中に、佐伯が1984年に「海燕」新人文学賞を受賞したエピソードがある。

 受賞作は、高校時代から書き継いでいた作品はひとまず措いて、新たに書いた自分の最初の結婚生活と子供の誕生を材にとった「木を接ぐ」という題名の私小説ふうの作品でした。
 その一年前の桜の時季には、昼休みを利用して現場の近くの書店を探して飛び込んで見た文芸誌(折しも尊敬する文学者だった小林秀雄の追悼特集が編まれた特別号だったことをよくおぼえています)の片隅に、自分の名前が載っていたものの、第二次を通過したことを示すゴシックにはなっておらず、落胆させられました。

その後、気を取り直して同じ作品を最初から書き直し、それが「海燕」で新人賞を取ることになる。

小林秀雄の追悼特集が組まれた文芸誌を探し、「新潮」と「文學界」の当該号を読んでみた。すると、「文學界」の1983年5月号が追悼特集と「第56回文學界新人賞中間発表」を掲載していた。

そこには「木を接ぐ(神奈川)佐伯麦男」とある。しかし太字にはなっておらず、二次選考は通過できなかったことが分かった。『石の肺』の記述の通りである。

驚いたのは、佐伯はこの作品を最初から書き直して「海燕」を取るのだが、タイトルが「木を接ぐ」のままだったということだ。タイトルの由来はこのブログで過去に書いたので省くが、思い入れの強いタイトルだったのだろう。

とまれ、ようやく「麦男」を探し当てた。とはいえ、佐伯はそれ以前にも新人賞応募をしているはずなので、今回見つけた「麦男」は一例に過ぎないかも知れない。今後も少しずつ調べていくつもりである。