杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

その作品は誰のものか。

ディーン・R・クーンツ『ベストセラー小説の書き方』(大出健訳、朝日文庫、1996年)の第一章は「偉大な名作を書く」というもので、ここでクーンツは「純文学」、いうなれば高尚で藝術的な作品を書こうとする態度を批判している。

また同じ章の中に、テレビの現場の集団制作の中で物を書く作家、つまり脚本家についても述べているところがある。

真の作家をめざすのなら、テレビを中心に仕事をすることはすすめられない。もちろん例外もあるだろうが、テレビの脚本は純粋には芸術とは言いがたい。本質的にひとりの知性や感性による作品とは考えられないからだ。原作者のほかに無数の人間が作品に手を加え、まったく書き変えてしまうことすらある。プロデューサー、アシスタント・プロデューサー、ディレクター、番組編集者、スタジオの幹部、局の幹部、局おかかえの検閲官、そして必要のあるなしにかかわらず原作を修正するために雇われたスクリーン・ライターなどなど。テレビでものを書くということは、雑多な構成員の集団で作業することになる。このような集団に、ひとつの目的を追求するひたむきさや、芸術の創造に不可欠な魂があろうはずはない。

これを読み、ライターとして、つまり「集団」制作の中で文章を書いている私は、考えさせられた。

一般にライターという仕事は、クライアントや編集者の様々な要求に応える形で文章を書く。時にはデザイナーから文字数を指定されることもあるだろう。クライアントも編集者もデザイナーも、それぞれ目的と事情があり、それらの思惑を一つの文章に落とし込む作業は往々にして難しい。無理難題、抽象的で無茶な頼みを振られることも少なくない。めちゃめちゃに赤字修正を入れられることもある。

もちろん小説家だって編集者の修正指示を聞かねばならないだろうし、読者の期待を意識することもあるだろう。だから辛いことは変わらないはずだが、自分の名前で世間に文章を出す、という点がやはり大きな相違だろうか。書いた物は誰の物か。自分か、他人か、ということかと思う。