杉本純のブログ

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永井荷風と桜草

先日、都立浮間公園を訪れた際に「浮間ヶ原のサクラソウと桜草圃場」という案内板を見た。そこには、浮間ヶ原(浮間ヶ池の東側)をはじめとする荒川沿いの原野はサクラソウの群生地が広がっていて行楽地だったが、それは大正時代までのことで、荒川の流路が変更され、都市化が進むにつれてサクラソウは姿を消していった、などとあった。その後、地元の人たちが桜草保存会を結成し、公園内の圃場で栽培と公開を続けている、と。

その案内板には田山花袋『一日の行楽』と永井荷風葛飾土産』に桜草が描かれているとして、本文が少し引用されていた。花袋の方は原文に当たるのは難しそうだが、荷風のは中公文庫(2019年)で出ていて、比較的簡単に読むことができる。

葛飾土産』は中央公論社から1950年に出ているが、桜草に触れている「葛飾土産」の該当箇所を読むと「昭和廿二年十月」とある。

 わたくしが小学生のころには草花といえばまず桜草くらいに止って、殆ど其他のものを知らなかった。荒川堤の南岸浮間ヶ原には野生の桜草が多くあったのを聞きつたえて、草鞋ばきで採集に出かけた。この浮間ヶ原も今は工場の多い板橋区内の陋港となり、桜草のことを言う人もない。

案内板にもこの箇所が引用されているが、上記概要のような桜草の減少を荷風は目の当たりにしていた、と言えようか。

葛飾土産」は味わいのある随筆で、時代と共に社会の様相が移り変わるのを透徹した文学者の眼で見ているのが伝わってくる。

上記引用の数行後に、面白い箇所があった。

わたくしは西洋種の草花の流行に関して、それは自然主義文学の勃興、ついで婦人雑誌の流行、女優の輩出などと、略年代を同じくしていたように考えている。入谷の朝顔と団子坂の菊人形の衰微は硯友社文学とこれ亦運命を同じくしている。向島の百花園に紫苑や女郎花に交って西洋種の草花の植えられたのを、そのころに見て嘆く人の話を聞いたことがあった。