杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

「掘割」と「堀割」

北方謙三「かけら」(『帰路』(講談社、1991年)所収)を読んでいて、面白い箇所があった。主人公は現在は作家なのだが、15年ほど前の大学卒業後はまだ芽が出ておらず、当時広告代理店に勤めていた友人からPR誌の雑文執筆や編集の仕事を頼まれてやっていた。

当時、友人から文字の修正を受けたり、100文字削るよう指示を受けたりするのだが、プライドゆえに意地を張ることなく、素直に受け入れるのである。

 ある時、私が書いた雑文の字を勝手に直された。『掘割』という言葉だ。友人は『堀割』と直して、つまらない間違いはするなと眉を顰めた。私の方が正しい。それはわかっていた。反論はしなかった。家へ戻り、辞書で確かめて、薄笑いを浮かべただけだ。

この主人公は大人だな、と思った。ライターの中にはクライアントや編集者に反論する者がいて、私も過去に何度か反論したことがあるが、幼かったな、と今では思っている。もちろん反論してはいけないわけではないし、反論して良い結果につながることもある。この主人公が大人だな、と思ったのは、両義的である。すなわち、割り切っていることを物分かりが良い、と思う一方、ドライで冷たい奴だとも思うのである。

けれどももっと引いて考えれば、作家志望者がライター業をそこまでこだわりを持ってやることは少ないのが普通で、現にこの主人公はPR誌の仕事に真剣だったとは言えないので、ドライなのが当たり前だし、それが賢いと思う。

ちなみに私の手元の学研の辞書を見ると、「掘割」で間違っていないが、その漢字だと「掘り割り」と送り仮名が付き、「堀割」の字もある。「かけら」が書かれた時期の漢字事情は分からない。