佐伯一麦『月を見あげて』(河北新報出版センター、2013年)の「カキダシスト」は、小説、とりわけ短篇小説は書き出しが重要だということを述べた随筆で、書き出しのうまい作者をカキダシスト、結びのうまい作者をキリストだと宇野浩二が分類したことが紹介されている。
これは大岡昇平が『現代小説作法』(文藝春秋新社、1962年)でも述べていたことで、「この冗談のおかしさは無論キリストが基督と語呂が合っていること」と書いている。
しかし大岡はその後、「書き出しばかり堂々としていて、十頁先で早くも小説がよろめきはじめるのでは滑稽です。書き出しはあまり凝らない方がいゝかもしれません」と言っていて、私もそう思う。ただし大岡は森鷗外「阿部一族」の書き出しは後で惨劇が起きるのにそういう暗さがないと評価し、デフォー『ロビンソン・クルーソー』はクルーソーの名前に関するユーモラスなエピソードを書いていて巧いと述べているので、決して書き出しを軽視しているわけではない。
宇野浩二がどこでカキダシスト、キリストと言ったのだろうと思い調べてみたら、どうやら「文學界」に1951年から連載され、1953年に文藝春秋新社から出た『芥川龍之介』に書かれている。それによると、その分類は宇野の文学書生の頃の友だちが言っていたことらしい。
さて佐伯は「カキダシスト」の中で、自分の新人賞受賞第一作が、先輩作家から「君ね、書き出しぐらいは、もう少し考えた方がいい」とアドバイスを受けたことを書いている。その書き出しは、
大晦日のその夜、私は、ゆっくり湯につかりながら、慌ただしく過ぎた一日をおもいかえしていた。
というもので、1985年に発表した「虫が嗤う」という作品である。
それにしても「先輩作家」とは、誰だろうか。