杉本純のブログ

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書く動機

大沢在昌の『小説講座 売れる作家の全技術』(角川文庫、2019年)は、2012年に刊行された単行本に加筆修正して文庫化したもの。その巻頭には「文庫版特別講義」と題された、大沢在昌と編集者たちによる座談会が掲載されている。

その最後の方で、大沢がこんなことを言っている。

書き手としてどうしても書きたいもの、訴えたいものを持っていないと、作家として長く生き残っていくことはできないということ。プロでやっていける人間は、売れたいとか有名になりたいとかじゃなくて、「こういう話を書きたいんだ」「こういう物語を読ませたいんだ」というものを強く持っている人なんだと思います。

会社勤めをしながら小説を書いていてしばしば感じるのは、別に書かなくても生きていけるのだがやはり書きたいということだ。生きていけるだけの収入はあるのだからべつに寝る時間を削って小説を書く必要なんてない。しかし、書きたいという欲求があるから作品に向かう。そういう素直な気持ちだけが、長く持続しているような気がする。

賞を取りたい、と思って書いていたこともあったが、その深層にあったのは恐らく、有名になりたい、有名になって周囲の人間たちを見返してやりたい、といった動機で、それではどうも小説が面白くならず、続きもせず、ただ精神を消耗しただけだったような気がする。

また以前、ある人への恨みを、その人とのエピソードをそのまま小説として書いたのだが、作品としてはまったく駄目だったし、続かなかった。

それよりは、この話は面白いぞ、絶対に書きたい、と思う方が筆は上手く進んでくれるし持続もすると、経験から思う。

けっきょく、小説を書くことそのものに意識が向いていないとどうも書き続けるのは難しいのではないか。小説を書くとは、端的に言えば「お話」を書くことに他ならないので、話そのものに意識が向いている方が良いと思う。

恨みを晴らしたい、とか優位性を誇示したい、という欲求を持つのは人間らしくていい。しかし小説そのものは「お話」であって、そうした欲求の直接の発露である必要はない。

逆説的だが、恨み節や優位性誇示などの気配を出さずに面白い小説を書くことの方が、結果として長続きするし、恨みを晴らし、優位性を示すことにもつながると思う。要するに面白い話を書くことが大事なのだ。