杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

安心

将来のことを考えて今やりたいことを我慢するより好きなことをやれ、というのは最近特によく耳にすることで、大きな経済成長が見込めなくなり高齢化も進んでいる今の日本にふさわしい言葉だと思う。感覚的だが、とにかく真面目に頑張りさえすれば明日はもっと良くなる、といった時代はとっくに過去のものになった印象がある。まだそういうのを信じている人が、かなりの数いるようには思うが。

これは「安心」に関する議論に結びつくんじゃないか。すなわち、好きなことを夢中になってやるというのは、ある意味で、目の前に潜んでいるかも知れない落とし穴に落ちる危険性を孕んでいる無防備な行為だと言える。石橋を叩くことは大事だし、危険を想定した装備は必要で、護身も大切、危ないことには近寄らない処世術も時に重要なのは言うまでもない。しかし、ではそうやっていつでもおっかなびっくりで、とにかく安全地帯から一歩も出ずにいるのはどうなのかというと、スリルがない分、得られる喜びや快楽も小さく弱くなってしまうんじゃないかなと思う。それでもいいなら何ら問題はないが、それだって絶対に安全ではないし絶対に安心でもないのだ。

私は物を書くのが好きであり、そのための調べ物も喜んでする。できれば四六時中、それを夢中になってやり続けていたいし、作品を世に問うてダイナミックに展開したいとも思うのだが、社会人として生きている以上、当然お金や仕事のことで不安も出てくるし、悩みごとも尽きない。

不安や悩みを安心に変えるために、色々と考える。しかし、そうやって考えたこと、例えば転職だったり独立だったり貯蓄だったり投資だったりするのは、結局いくらやったところで安心をもたらしてはくれないようだ。転職も独立も貯蓄も投資も要するに手段であって目的ではないので、それをいくら実行しても安心には直接結びつかないのだ。

目的を実行してこそ充足感があり、後悔がないことの延長線上に安らぎ=安心もあるのではないかと思う。となるとやっぱり私の場合、調べて書く以外に安らぐ方法なんてない…いや、調べて書くこと自体が安らぎをもたらすのだということが言える。

あなたも私も、明日死ぬかも知れない。完全な安全も安心も結局この世には存在しない。とすれば、好きなことを好きなようにやる以外、安らぎはないんじゃないか。もちろん現実を見ず浪費したり遊び呆けたりするのは愚かだが、現実の生活を営みつつ、好きなことをやるのを中心に据えるのが良いと思っている。