杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

書くことがないならまず行動

長いワナビ歴の中でことさら苦しんだことの一つに、「書くべきことがない」がある。

それは映画学校に通っていた時期にもあった。制作実習に先立つシナリオコンペに出すためシナリオが書くのだが、書けないのだ。ゼミ講師は、とにかく書け、書くんだ、と声を大にして言っていたが、虚しいことに、とにかくもくそもない、書くことが何もなかったのである。その気持ちを正直に話した学生に対し、講師は、お前は大作家先生か、書けないなんて言うのは百年早い、みたいに言っていた。私は、ひとまず絞り出すように苦悶しつつどうにかこうにか一篇書いて出したが、内心では講師に説教された学生のように書くことがなく苦しかった。もちろん書いたシナリオは内容空疎で手応えもまるでなかった。

講師が言っていたことの意味が、今は分かる。

思うに、書くことがない状態というのは、何も調べていないし、出会っていないし、発見もしていない状態なのだ。行動し、体験をしていれば、書くべきことはあるはずだと思う。私はブログネタが尽きることがないが、それは漠然とした感慨や自分の中にあるぼんやりとした考えや記憶でも一つのネタにしているからで、今日のこのエッセイもまさにそれだ。これらは、調べて事実を発見し、それを書いた記事に比べると価値が低いと自分では思っている。

ブログ記事とシナリオや小説は違うので、漠然と思っていることを作品にするのは難しい。シナリオや小説というのは一つのまとまった「おはなし」なので、特に私小説的なものについては、それを書くには、行動が何らかの形に帰結した体験を持っていることが必要だろうと思う。実体験を元にするのでない場合なら、ある出来事について始まりから終わりに至るまできちんと調べること。全てを空想で組み立てようとするのは、よほどの想像力が必要だと思う。

ようするに、書くことがないなら、まずは何か目的を作って行動を開始し、目的地に到達するまで行動し続けなくてはならない、ということだ。それがない限り、書くことなど出てこないと思う。一連の行動の中に、喜びがあれば怒りがあり、悲しみがある。それが行動という経糸に対する緯糸になる。経糸緯糸を組むことで、一篇の話が編み上がるはず。

ただし、そうして書かれた話が、人から評価されるかどうかは、また別の話。