杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

「物語と哲学」

根本昌夫『[実践]小説教室』(河出書房新社、2018年)の前半に「小説は「お話」ではない」とあり、驚いた。私は、小説というのは「お話」だと思っていたからだ。

該当の章をよく読んでみると、山田詠美佐伯一麦の対談「内面のノンフィクション」に触れて、「真実」があるのが小説なのだと述べつつ、真実から哲学、科学へと引き延ばしていき、小説の成り立ちなどにも言及して、小説とは「物語と哲学が融合したもの」と定義づけている。

そして、純文学とエンタテインメント小説の違いについては、哲学の比率が高いものが純文学、物語の比率が高いものがエンタテインメント小説だと言っている。

私はべつに異論を唱えるつもりはなく、根本の言うのは正しいと思う。ただし、物語にはそもそも哲学が入っているだろうと思うが哲学には物語が入っているわけではないと思っていて、けっきょく小説とは広い意味での「お話」ではないかと考えている。

また、ひとまず物事の経緯が分かるようになっていても、「城の崎にて」など哲学なのか思索なのかわからない述懐が続く心境小説が「小説」なのかというと、疑わしい気がしてくる。もっとも私のこの思いには、思索や自分語りに耽溺して外面的には何の出来事も起きないストーリー不在な小説が高尚だと受け止められていることへの反発が込められている。

小説である以上、やはり経緯がある一つの「お話」になっているのが良いと思う。そこに哲学だとか理論だとか科学が息づいていることで、読み応えが増してくるのだろう。