杉本純のブログ

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友情について雑感

「友達」について議論するテレビ番組があったので見た。その番組は哲学が主たるテーマで、各回とも何らかの議題について「対話」によって認識を深めていこうとしているようだった。で、私が見た回の議題が友達だったのだ。正確には、友達はたくさん必要だろうか、といった議題だった。

私は友人は少ない方だと自覚している。だから、番組の議題について答えるとしたら、友達はたくさんいなくていい、と言うだろう。

番組では複数の登場人物(キャラクター)が、たくさんいる方が良いと言ったりいなくても良いと言ったりと、さまざまな意見が出て文字通り認識を深めていった。果ては、友達とは何だろうか、というそれこそ哲学的な問いにまで発展していったのだが、実は私も友達とはどういうものだか、正確にはよく分からない。しかし、まぁ軽口を叩きあったり、困ったことを相談できたりするのは、おおむね友人と言い得るのではないだろうかと思う。私にそういう間柄の人は複数いるが、決して多くはないと思う。

さて番組を見ていて思ったのは、友情にはファッション的な要素があるだろうなということだ。このファッションは二通りある。すなわち、「親友」という高尚なものを持っていることを気取るファッションと、友達なんていないという「孤独」を気取るファッションである。

私は少年の頃に、ある数名の友人を心の中で「親友」と呼び、自分はそうした上等な友人を持つに足る上等な人間だと思っていたことがあった。また後年には、自分を理解してくれる友達なんていない、俺は孤独さ、と考えたことがあった。

両方とも、ごく短い期間、胸の中に起伏した感情だったが、思うに、こういう感情はいずれも単なる気取りに過ぎなかったろう。「親友」あるいは「孤独」という名のファッションだったんだと思う。

考えてみれば、相手をどんなに「親友」と思ったところで、必ず自分と合わないところがあるし、打ち明けられない悩みもあれば、腹が立つこともあるだろう。百パーセント完全に親友である人などいるはずがないし、いないことの方が健全であると言える。

逆に、自分を友達のいない「孤独」な人間と思っても、人と共感できる部分があれば軽口を叩き合うことだってあるだろうし、相談事を受けることだってないことはないだろう。誰からもまったく信頼されず、蛇蝎のごとく忌み嫌われることもまぁまずないと言って良いだろう。

思うに、友情というのは愛情などと同じで、相手に対しそういう感情を抱く時もあればそうでない時もあるのであって、ことさら人を親友と思ったり自分を孤独と思ったりする必要はないのではないか。

普段は仲の良い相手が、別のあるシチュエーションで一緒になったらストレスを感じることもあるだろうし、その逆もあると思う。人間、経験と年齢が重なれば重なるほど人生・生活が多重多層になってくるもので、そのすべてにおいて感性が合う人は滅多にいないはずで、逆に部分的であれば感性が合う人は少しはいるだろう。そして、きちんと礼儀と節度を持って接していれば、親友でなくとも普通の友人関係を築けると思う。