中村文則の『銃』は第34回新潮新人賞受賞作(2002年)。この作品について、ちょっと物好きな調べ物をしてみた。
主人公は大学生の男で、ある日、自宅から歩いて行ける川の近くの芝生で男の死体を発見し、その傍らに落ちている拳銃を拾う。拳銃は主人公を非日常へと導く妖しい魅力に満ちており、主人公はその虜になっていく。現実生活に倦んでいる若い男が妖しい物の魔力に取り憑かれてしまうという、割と古典的な感じの話だ。
拳銃を拾うのは物語の冒頭。主人公は雨が降る中、特に目的なくふらふらと自宅周辺を歩き、川を跨ぐ橋につながる「広い道路」に出る。やがて死体と拳銃を発見するのだが、その場面は次のように描写されている。
道路はそのまま川を跨ぐ橋に変わり、私はその橋の手前で、芝生の生え揃った緩やかな傾斜を川に向かって下った。(中略)芝生の地面は川に近づくにつれてコンクリートに変わり、川はそのコンクリートで左右を整備されていた。川は雨によって水かさが増し、大きな音を立てて激しく流れていた。私は橋の下に入り、傘を閉じた。橋の下では川音が反響し、さっきよりも酷くうるさく感じられた。
そして「コンクリートと芝生の境目の辺り」に死体があるのを発見する。その場所は、後日の死体発見のニュースにより、板橋区の荒川付近だったことが分かる。
荒川を跨ぐ橋は、板橋区には二つしかない。中山道の「戸田橋」と、首都高速5号池袋線の「笹目橋」である。両方とも、橋を渡り切ると埼玉県の戸田市になる。
ちなみに板橋区の荒川付近には新河岸川という「川」があるが、これを跨ぐ橋は「広い道路」とは言えない。ひいき目に見て「広い」と思える道路は、ないことはないが、これらは「荒川付近」とは言えない場所にある。この「広い道路」は、「戸田橋」か「笹目橋」である可能性が高い。ちなみに「笹目橋」は荒川だけでなく新河岸川をも跨いでいる。
のちに主人公は自宅の隣りに住む女を拳銃で撃とうと思い、どこで撃つかを考えるために女を尾行する。そして女が東京と埼玉の県境にあるスーパー(所在地は埼玉)をよく使っていることを知る。橋の手前を生活圏と考えれば、「戸田橋」周辺は東へ行くと北区と接していて埼玉県とは接していないので、主人公の自宅は「笹目橋」の方に近いと推定される。とするとこの小説の世界は、板橋区と和光市(埼玉県)の境目あたり、板橋区の三園や新河岸や高島平の界隈だということになる。
なお2017年8月23日の毎日新聞夕刊に中村文則の記事が出ており、中村がかつて都営三田線西高島平駅の近く、和光市との県境にワンルームを借りて住み、その周辺の風景を『銃』に描いたと書かれている。また、中村はテレビに出た際にも『銃』の舞台は高島平だと言ったらしい。「広い道路」から続くのが「笹目橋」であるのも、これでほぼ確定的と言える。
小説の描写を頼りに、死体が発見された場所が現実にはどんな所なのか、歩いて確かめてみた。
「笹目橋」は首都高速5号池袋線の両脇に歩道がある。双方とも、荒川を跨ぐ手前で土手側に折れることができるが、芝生もあるものの道は舗装されている。ただし、東側は古くから舗装されていたかも知れないが、西側(和光市側)の舗装は比較的新しく、この作品が書かれた2002年以前はもしかしたら芝生だったかも知れない。
なお『銃』には「橋の手前で、芝生の生え揃った緩やかな傾斜を川に向かって下った」とあるが、「笹目橋」の始まりは川から遠く、その手前から川に向かって下るのは不可能。「橋の手前」でなく荒川の手前からなら下りられる。
橋の下は荒川からは遠く、たとえ増水していてもその様子は見られないだろうし、音もたとえ激しくても聞こえない。水かさと音を確認できるのは、この場所で荒川の近くを流れている新河岸川である。
橋の下は昼間もかなり暗かった。小説では死体発見のニュースは主人公が見つけた数日後に報道されるが、たしかにここはあまり人が寄りつかなそうだと思った。
三園、高島平の界隈にはトラックターミナルや三園浄水場などがある。トラックの交通量がかなり多く、うるさいけれど賑やかではない寂しい場所だ。