杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

楽譜か演奏か。

宮原昭夫の『増補新版 書く人はここで躓く!』(河出書房新社、2016年)は、芥川賞作家である宮原が、ある程度小説を書くことができる人に向けて書いた、もう一歩上達するための小説指南書のような本である。いちおう書けるんだけど、どうも面白くならない、もう一歩抜けたい…そういう状態にある多くの人が抱えているであろう小説に関する誤解や欠陥を指摘する本であり、得るものがあるのでたびたび読んでいる。

その中に、「読書は、音楽に譬えれば、演奏だ」という小沢信夫の言葉が引かれており、宮原は名言だと言っている。

普通だったら「読書を音楽に譬えればレコード鑑賞だ」とでも言うところでしょう。ところがそうじゃないというわけです。小説の文章は演奏にあたるのではなく、楽譜にあたるのだということです。読む人は、文章という形の楽譜を読み取りながら、頭の中でストーリーを演奏して行くのだと。なるほどな、と思いました。

続けて、楽譜が同じでも演奏者によって演奏は微妙に違ってくる、それと同じように小説も、同じ作品でも読者によって違ってくる、と書いている。

私は以前は小説は一個の完結した藝術作品だと思っていて、小説を音楽に例えたら、それは一つの曲であり、本は曲を収録したCDやレコードのように考えていた。しかし宮原の考えに接して、たしかに小説は楽譜かも知れないと思うようになった。

ところで、三島由紀夫の『小説読本』(中央公論新社、2010年)には次のように書かれている。

 小説も戯曲も文学作品であることに変りはないけれども、大きなちがいは、小説が書かれた形で完全に完結しているのに引きかえて、戯曲は上演を予定し、他人の肉体や照明や舞台装置やさまざまなものの力を借りて、最終的に完結するということである。戯曲は、むしろ、楽譜に比較すべきものであって、作曲家の営為の記録された形である楽譜は、オーケストラと指揮者を予定し、劇作家の営為の記録された形である戯曲は、俳優と演出家を予定していると云えるのである。
(中略)
 (小説は)作者一人の手で何から何までしつらえられたものが、直に享受者の手に引き渡されているわけで、むしろ小説は、絵画その他の造形美術にたよえられよう。強いて舞台芸術にたとえれば、小説というものは、舞台上の演出、演技、照明、音響効果、衣裳、靴、舞台装置、小道具、はては舞台監督、大道具の仕事まで、作者一人で請負い、全責任を以て享受者に提供しているわけである。

この三島の言葉と宮原の言葉を並べて考えると、私はやはり宮原が正しいと思う。正しいというより、宮原の方が一枚上という感じだ。小説は「完全に完結」などしておらず、読者に読まれることを予定している。戯曲は俳優と演出家を予定しているのではなく、演劇作品になるための設計図の役割を果たし、演劇作品が観客に見られることを予定している、ということだろう。小説と戯曲は並列ではなく、小説と演劇作品が並列なのだ。だから演劇作品における戯曲は、小説における梗概などに当たるのだと思う。

こういう考えで引用の後半を考えると、「絵画その他の造形美術」だって楽譜である。小説にとっての読者は、絵画にとっては美術館などで作品を見る来場者ということになる。