杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

変人の平和

捨て身で生きる

モリナガアメ『話せない私研究――大人になってわかった場面緘黙との付き合い方』(合同出版、2020年)は、場面緘黙という一種の障害を持つ著者が、理解者が少ない中でその障害といかにうまく付き合っていくかを模索し奮闘する経緯を描いた漫画です。

私はこの著者ほどではないですが、シチュエーションによって言葉が出なくなることは身に覚えがあり、本書は共感をもって読んでいます。いや、共感どころか、一般的なコミュニケーションと仕事がままならない人はこう考え、こう生きるといい、というのを深い感銘とともに学ばせてもらっています(褒め過ぎですが、本音です)。

本書の第2話「普通をやめてみる」は、場面緘黙の体験漫画を描き続けると決意した主人公が、ではいかに日常生活と仕事の負担を軽くして執筆にエネルギーと時間を注ぐか、の作戦を立て、実行する経緯が描かれています。その思考の過程ではしばしば、負担を軽くする=楽をする=人としてダメ、という、「常識的な自分」からの「脳内苦言」が呈されます。それは漫画では一種の悪魔のささやきのように描かれ、主人公はそのささやきを一つ一つ理性で乗り越えます。

今まで「普通」になろうとして上手くいかない事ばかりだったしもういい!
今感じてる負担をできるだけ削ぎ落とすために「普通」の枠にとらわれない生き方を模索する!
変人は変人なりの平和な日常が送れるように試行錯誤してみるぞ!
もしうまくいかなくても漫画のネタになると思えば意味はある!

この「普通にならねばと考えるのをやめる」と「どんな結果でも漫画のネタになる」は、主人公にとって強固な軸になり、現実をたくましく、したたかに生きていく力になります。

以前HSS型HSPが、「自分を変人と初期設定するといい」という意味のtweetをしていました。本書の主人公が決意した「変人は変人なりの平和な日常が送れるように試行錯誤してみる」は、まさに自分が変人だという初期設定をした、ということでしょう。HSS型HSPと場面緘黙には違いがあるでしょうけれど、決意の仕方には共通するものがある、ということです。

それにしても、こういう決意をするにはそれなりに腹を括らなくてはならないはずで、漫画は面白く描いていますが、相当の勇気が必要だったのではないかと推察します。

私はモリナガの「描く姿勢」を私小説家の「書く姿勢」と同じように見ています。それは言うなれば「捨て身」というやつです。