杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

「描き続けるしかない」

呪われた人

数日前から読んでいる、モリナガアメの『話せない私研究――大人になってわかった場面緘黙との付き合い方』(合同出版、2020年)。

その第一話「詰んで始まる」は、著者のモリナガが、自分の人生が「詰みかけている」のを悟り、ある意味での開き直りをする経緯が描かれています。

自分の経験をマンガにして発表し始めたところ、周囲からの反響の影響もあり、自分のそれまでの人生が客観視された。すると、自分の人生は思っていたよりも深刻だったらしいことが分かり、それまで忍耐できていた現在の環境も次第に辛くなってきて、ついに電車の中で耐えられなくなり駅ホームへ出て動けなくなります。

しかし、モリナガはすでにそれが自分の「正しい反応」なのではないか、と認識できる冷静さを持っていました。これは、一種のメタ認知の働きではないかと思います。そして、追い詰められたあげく自分のことを認めよう、許そう、これ以上自分を追い込んではいけない、と思い至るのです。

だけど漫画を描くのをやめるのだけは許せない
前に進むには描き続けるしかないし 今やめるのは嫌だ
この先どうなるのか分からないけど こうなったら「すべては漫画のネタになる」と思って自分を観察してみよう
そして漫画を描いている間の不安定な精神でも生きていくには
マジで「自分が悪い・逃げたくない・もっと頑張らなきゃ」とか何でも抑え込んでる場合じゃない
合理的に考えても もっと楽に生きるっきゃねえ!!!

私は、この人の決意は純文学、いや私小説家のそれに近いものがあるのではないか、と思いました。

「前に進むには描き続けるしかない」。純文学や私小説を書く人は、文章や「お話」を書くことが好きであるのと同じくらいに、いやあるいはそれ以上に、すでに人生は詰んでいてあとは小説にすがるしかない、という状況にある気がします。モリナガの決意は悲壮なものですが、これこそが描く人がするべき(せざるを得ない)人生の選択なのではないか、と思います。

見ようによっては、好きなことばかりやってのほほんと生きているように見えるかもしれませんが、そこには悲しいまでの諦めと開き直りがあるのです。

それは私小説家も同じであると考えます。私小説家は「書く」ことに「呪われた人」なのではないかと思います。