杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

アメリカの百科事典

虚栄としての教養

近所で廃品回収が行われ、道に各家庭から出された新聞・書籍類が置かれていました。
その中に、ひときわ分厚くて大きい上製本の書籍がありました。それが一冊ではなく複数まとめて置いてあったので、さては何かの全集かなと思って確認してみたのです。

『ENCYCLOPEDIA AMERICANA』と書いてありました。どうやらアメリカの百科事典らしいですが、見る限りではかなり良い状態で、使い込まれた形跡はありませんでした。

ネットで検索すると、30巻ほどある洋書のようで、全巻揃いでそれなりの価格で売られています。廃棄した人は売るつもりはなかったようですが、百科事典が廃棄されていたという事実から、私はいろんな想像を巡らせました。

百科事典を廃棄した人は、恐らく所有者の遺族でしょう。所有者はきっと戦後生まれくらいの男性で、最近死んだけれども、蔵書の百科事典は死後も家に残されていたのです。遺族が今般これを廃棄したのは、遺品整理の過程でのことだったのではないか。

そしてさらに推測すると、その百科事典は恐らく十年以上、一度もページを開かれることなく書棚に置かれたままでした。また所有者自身、数十年前に買ったきりほとんど読みもせず、中には一度もページを開かなかった巻もあったと思います。状態が良かったのは、読まれなかったからです。

文学全集は1950から60年代に盛んに刊行されたらしく、当時は一シリーズは揃えて本棚に置くのが教養人だとされる風潮があったらしいです。百科事典の類いも、似たようなものだろうかと私は思います。しかし、70年代に生まれた私は友人の家で百科事典や全集を見たことは多分ありません。

棄てられた百科事典は、たぶん、所有者の教養人ぶりたい虚栄心を満足させるものだったのではないか…などと私は想像します。

余談ながら、私自身、やはり全集を保有することに憧れた時期があり、谷崎や漱石などの浩瀚な重たい全集を大金を出して買い、書棚に置いて満足していました。今はそれらの書物は蔵書していませんが、当時の私の「教養」観はあまりに古くて間違っていたと認めざるを得ず、恥ずかしく感じます。