映像的であること
久しぶりに『虫めづる姫ぎみ』(ポプラ社、2003年)を読みました。文章は森山京、絵は村上豊の絵本です。
毛虫が好きで、お歯黒もせず自由に生きる姫が主人公の話で、『堤中納言物語』の有名な一篇です。「ナウシカ」のモデルの一つになったことでも知られていますね。
以前もこのブログで書きましたが、右馬之助が女装して姫を見に行くところなどは、やはり絵になる、映像的なエピソードとして印象に残ります。
古典に限らないですが、やはり読後も深く記憶に残る作品は映像的な要素を持っています。『ドン・キホーテ』なら風車に突進するところがあるし、『レ・ミゼラブル』なら下水道をマリユスを背負って脱出するところなどがあり、『ロビンソン・クルーソー』なら島で独力で生きていく過程のところどころが強く印象に残ります。また最近読んだ作品では大江健三郎の『取り替え子』も、大黄(ギシギシ)の錬成道場のところをはじめ映像的な箇所がいくつもあり、記憶に残っています。
小説を創作する上ではキャラクターやストーリーをいかに面白くするかが大切ですが、映像的であることも重視したいです。