杉本純のブログ

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社会と世間

「空気」を感知できない

Twitterに「同調圧力」について書かれたツイートがあり、そこには同調圧力は「世間」が作り出している、とありました。

「世間」は「社会」とは違う概念で、前者は自分に関係のある人だけの世界、後者は自分に関係ない人も住んでいる世界。前者は具体的には会社や学校、町内会で、論理や法ではなく情や絆がルールになっており、「個人」よりも「公」が尊重されるらしい。世間にとって社会は敵であり、社会からすると世間は話し合いが通じない世界である、とのこと。

世間には、言わなくても通じるだろう、ずっとこうしてきたから、空気を読め、といった「圧力(これが同調圧力らしい)」があり、社会人がそれを跳ね返すには「それはなぜか?」と水を差して空気の支配にゆさぶりをかけるのが有効とのことです。

具体的には書きませんが、ここでいう「世間」的な世界が、理屈の通じないところだというのは、私自身もしばしば感じるところです。明文化されておらず、力のある人が名言しているわけでもないのに、どうやらそこには眼に見えないルールのようなものが存在しているらしい。明文化されていないので私はそのルールの存在を認知すらしていないのですが、周囲の人はどうやらそれを認知している。そして私に対し、どうしてお前はそんなことも分からないんだ、と小馬鹿にするような眼すら向けてくる。

けれども周囲をつぶさに見ると、どうやらそのルールは本当に存在していないようです。その正体は、運動部などにありそうな一種の「ノリ」、あるいは、一定のベクトルを持つ、それこそ「空気」のようなものであるらしい。それを感知し、そのベクトルに合わせた言動ができる人が、その世界ではストレスなく過ごせるようです。私はそれを感知する感性が弱く、だから周囲からはズレた言動をしてしまい、ストレスを感じてしまうのではないかと思っています。