杉本純のブログ

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涙について

こないだ、ある人が仕事で悔し涙を流しているのを見ました。

私も、すでに十年以上前ですが、仕事で悔し涙を流したことがあります。上司に提出したものが丸ごと没になったことが原因でしたが、今思うと、上司からの要求は当時の私では理解できず、対応もできないものだったので、惜しくも及ばなかった式の悔し涙とは少し違っていました。言い換えると、上司の要求は当時の私の最大の力量から著しく離れた、理不尽としか言いようのないレベルのもので、つまり虐めのようなものでしたね。だから正確にいうと、私が流した涙は悔し涙というより、虐められた悲しさからきたものだったのではないか、と今は思っています。

人が悔し涙を流すシーンは、漫画やドラマなどでよく見られます。人間ドラマのほとんど定番のシーンといっていいでしょう。その涙は当人の情熱を掻き立て、その後の努力と行動に結びつき、成長をもたらします。

となると、悔し涙にせよ悲しさからの涙にせよ、涙というのは当人の成長のためには必要なものかもしれません。イージーモードでばかりやっていたら逆に実力は落ちてしまうので、時にはまったく歯が立たないくらいのハードモードを体験するのがよい、ということですね。

さらに考えると、では誰かを成長させたいなら、その人が思わず涙を流してしまうような要求を突きつければよい、ということになります。

しかし、それを安易に考えると、いよいよ頭の悪い体育会系の部活などにありそうな、質の悪い虐待行為の正当化になってしまいそうです。後輩を虐め、ギリギリまで追い込み、泣かせてギャフンと言わせる、というような。

指導者の役割の一つに、指導する相手(つまり部下や後輩)に成長の機会を与える、ということがあります。けれども、やはり上記のような虐待行為は断じて許されないと私は思う。それは「成長の機会」には違いないかもしれませんが、虐められた人は虐めた人を憎むだろうから、その成長は健全とは言えない。虐められた人はいつか、成長した強さで虐めた人を打倒しようとするでしょう。そんな結果をもたらす「成長の機会」を与える意味などあるはずがありません。

だからやはり、指導者の側は、相手が涙を流すほどの指導をするのは望ましくないような気がします。相手の実力を見極め、成長のためのちょうどいい負荷を与えるのが役割ではないか。私は「啐啄同時」という言葉が好きですが、学ぶ側と教える側の息が合い、相通じるような指導が良いと思います。

さてさて、では涙というのは、無くなってよいのだろうか。上記の流れからすると、涙などない方が健全な成長が遂げられることになります。指導の場においては、確かにそうかもしれません。しかし残念ながら、涙がなくなることはないでしょう。実力が試されるのは何も指導の場だけでなく、他流試合や試験の場合もあります。勝負の世界は理不尽そのもので、僅差で悔しい時もあれば、まったく歯が立たず打ちのめされることだってある。虐められたかのような気分を味わわされることもあるでしょう。そこに涙が伴うことも当然あるはずです。

だから、涙はなくならないわけですね。さらに考えると、指導者が指導する相手と一緒に勝利を掴むため、あえて心を鬼にして、指導する相手が涙を流すくらいに厳しい指導をする、ということもありそうです。スポ根の漫画かドラマみたいですね。指導する側にそれくらいの覚悟があれば、「涙を流させる」ということも、良い結果を生むかもしれません。ただしそのためには、指導する側とされる側に相応の信頼関係が必要でしょう。

そしてもう一つ。涙を流すというのは、究極的には流した本人だけの経験であるということ。悔しさや悲しさといった苦しみは当人だけのものであり、他の誰のものでもありません。