杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

生きながらの埋葬

とつぜん盲目になったパウロ

曽野綾子『心に迫るパウロの言葉』(新潮文庫、1989年)を、少しずつ読んでいます。パウロの言葉と逸話を元に曽野が自身の考えを述べる随筆で、読み応えがあります。

パウロは元々ユダヤ教徒で、キリスト教弾圧のために赴いたダマスコで回心を遂げ、キリスト教伝道に生涯を捧げるようになった人です。

その回心について書かれた「百八十度の心の転換」には、パウロがダマスコに近づいた時にとつぜん盲目になった、という「使徒行録」に載っている逸話が引用されています。そして曽野は、自身も経験した視覚障害について述べています。

パウロのように、完全に失明したのではないが、白内障のために読み書きができなくなってしまった。生まれつき強度近視の者は、先天的に網膜の状態も悪いのが普通だから、たとえ手術そのものは成功であってももしかするともう一生、一人前の視力の回復は望めないかもしれない、と思った時、私には食事もとらなくなったパウロの気持ちが痛いほどよく分かった。盲目というものは(その運命を受容しないうちは)生きながら埋葬されるのと同じだからだった。

物書きが読み書きできなくなったら、それはたしかに生きていながら埋葬されるような苦痛かも知れない、と思いました。

ポオの小説に「早まった埋葬」という短篇があり(『ポオ小説全集3』(創元推理文庫、1974年)所収)、曽野著の「生きながら埋葬される」というくだりを読んだ時、思わずその小説のことを思い浮かべました。最近ポオが頭から離れなくなっていて…いかんですなぁ。