杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

蔵書派から図書館派へ

知的生活のベースとなる本を蔵書するか、図書館に頼るか、という問題がある。知的生活を送り、本をたくさん読もうとする人の多くがぶつかる問題ではないか。電子書籍の読み放題にすればこの問題は半分以上は解決されるかも知れないが、私が求める本は電子化されていないものが多いので、電子書籍は選択肢からひとまず除外している。

私はかつては狭い六畳間に住みながらも「蔵書派」を自認していて、高い古書を買ってきて読み、赤字のアンダーラインを引き、いっぱし勉強している気分に浸っていた。かなり貴重であるにも関わらず赤字を引き、二度と古書店に売れなくしてしまった本も多い。

そういう時代にも、ブックオフなどに売ってお金に換えていたことがあったが、基本的には蔵書は増える一方だった。

ここ数年は図書館をヘビーユーズするようになっている。というのは、文学者の研究をするようになり、過去の文藝雑誌に大量に目を通す必要が生じてきたからである。例えば「海燕」などは、古書を探し、買って蔵書をするとなると、探す時間も払うお金も相当なものになるだろう。そんなことを続けるのはさすがに無理なので、時間もお金もかからない図書館を利用する比重が増えていったのだ。

一度、図書館に軸足を移すと、よほど頻繁に目を通す本でない限り蔵書する必要などない、という考えになってくる。図書館が徒歩圏内にあり、「海燕」などの文藝雑誌の過去号がばっちり揃っている図書館も職場の近くにあるので、読みたい時にさほど待たずに読むことができる。また図書館には協力貸出という制度があり、別の図書館から取り寄せることも可能なのでかなり便利である。

一年ほど読まず、これからも読むことがなさそうな本は、早々に売るようになった。その方がお金も「知」も循環して世の中のためにもいい、という理屈をつけている。こんな風に、以前は蔵書派だった私はいつしか図書館派になった。