杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

elaborate

先だって、第三十二回文学フリマ東京に出品した3作品(『藝術青年』『こぼれ落ちた人』『東京の家族』)を全て買ってくださった方から、それぞれの作への感想をいただいた。ありがたい。

その方は以前からの知人で、私の作品をいくつも読んでいる。長年にわたって読んでくださり、ちゃんと感想を伝えてくださるので、考えてみれば、私にとってこの上ない貴重な読者といえるだろう。小説にせよブログにせよ、読まれなければ何の意味もないのだから、本当に、ありがたい。

感想文の詳細はここでは省くが、これまでに知人が私に伝えてくださった感想・評価の類いと、ほぼ同じようなものだった。すなわち、私が書き続けていることを高く評価し、文章がわりあい整っていること、資質があることを認める一方で、小説のストーリーやテーマが弱いことなどを指摘し、誤植などのミスも指摘する。

これは私の書き手としての成長が遅いことを物語る気もするが、特にストーリーやテーマへの指摘については、毎回「それはあなたの好みと違うだけでしょ?」という思いもぬぐい切れず、読者の感想としてありがたく頂戴しつつ、それに流され過ぎてもよくないと思っている。

以前の私は、身近な人からの指摘に一喜一憂することが多かった。同人誌の同人や、それ以外の知人からの感想・批評にいちいち動揺していたような気がする。書き手として妥当なのは、あまり一喜一憂せず、かといって悉く無視するのでもない、バランスの取れた姿勢を維持することだろうと、今では思っている。思うに、以前は読者との距離が近すぎた。同人にせよ知人にせよ、私自身への個人的感情が作品の評価に濃厚に反映していたように思う。私もまた、個人的感情で同人の作品を評価していた。お互い、全体に、俺はすごいがお前は駄目、といった調子で、同人誌の合評会などはしばしば泥仕合の様相を呈していた。目糞鼻糞、低次元な争いだったなぁと思う。

今回いただいた知人からの感想文に「elaborate」という見慣れない語があった。(作中の)場面がelaborateに書き込まれている、とのこと。elaborateは「入念な」「手の込んだ」といった意味である。へぇー。