杉本純のブログ

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板橋区立郷土資料館 連携協定記念展「渋沢栄一×高島秋帆」

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板橋区立郷土資料館で4月24日から6月20日まで開催の連携協定記念展「渋沢栄一×高島秋帆」を見た。

新一万円札の肖像や大河ドラマで話題の渋沢栄一は、板橋区や、高島平の地名の由来となった幕末の砲術家高島秋帆と少しだけ縁があった。対面はしていないようだが、板橋区を巡る二人の足跡を見ると、幕末と明治のことが立体的に見えてくるようで面白い。

さて企画展は、前半で高島秋帆を、後半で渋沢栄一を取り上げ板橋区との関わりなどを紹介していた。

高島秋帆は長崎出身で、渋沢栄一武蔵国榛沢郡安部領血洗島(現在の深谷市)出身である。秋帆が「長崎高島四郎太夫一件」という疑獄事件で捕まり、江戸に護送された後に追放刑によって釈放されるまで幽囚の身として過ごした場所が武州岡部藩で、血洗島はその知行地だった。大河ドラマ「青天を衝け」では、幽閉されていた高島を少年の渋沢が見る場面があったが、二人が会ったという史実はないらしい。

秋帆は西洋式砲術を学び、高島流砲術を創始しそれは継承されていく。後に、農民の中から募った農兵に対しても洋式訓練が施されるようになるが、渋沢が徳川慶喜の一橋家に仕えて最初に行ったのが農兵の募集である。

秋帆の功績を顕彰した「火技中興洋兵開祖高島秋帆紀功碑」は大正11年に建立された。この碑には軍人や皇族も寄付したが、その中に渋沢もいた。だが、記念式典には渋沢は欠席したらしい。

今回の展示を見て、ざっと上記のような秋帆と渋沢の縁が窺えた。渋沢は他にも養育院の院長を務めたことがあり、養育院の本院は東京内を転々とした後に板橋に移転した。これは現在の東京都健康長寿医療センターとして今も続いていて、敷地内には渋沢の銅像がある。