杉本純のブログ

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『家族をさがす旅』への共感

町田哲也の『家族をさがす旅』(岩波書店、2019年)は、作家である著者の父が緊急入院したことをきっかけに、著者が父の事績を辿る行動を始めるノンフィクションである。父はかつて岩波映画に勤めていたことがあり、また著者という子をもうける前に他の女と結婚していて、その人との間に子供がいた。著者の町田は、父が関わった岩波映画の人や作品、そして異母兄をさがして行動する。それが本書の経糸であり、そこに、町田自身の父や家族への思いが緯糸として重なってくる。

映画を志していた父は、その志に挫折しパン屋になるという人生を辿る。家庭では暴言と暴力が多く、決して自分の人生に満足していたとは言えない。父の人生を辿る中で町田はそういう父の人生と心情を思うのだが、そこに、家庭を築いた上で作家活動をしている今の自分の思いも重なってくるのである。

 表現を志しながら自分の生活に足を取られ、思うようにならない毎日に疲れて子どもを怒ってしまう。まさに父と同じ立場に、ぼくが立たされていた。

 映画に情熱を注いだ父にとって、その後の人生は敗戦処理のようなものだった。行き当たりばったりの生活のなかでパン屋にたどり着き、いつの間にかそんな生活から抜け出す気力も失っていく。とりわけ家族は、自分の足を引っ張る邪魔な存在だったのだろうか。

父は、こじらせワナビに近い人だったのかも知れないと思った。こじらせワナビは、そのこじらせてしまった人生を容易に解きほぐせない。父はもともとの性格が乱暴のようだが、家族に当たり散らす背後には、解きほぐし難い人生への憤懣があったのかも知れない。この辺り、私はすごく共感する。

「現在の自分」に納得して生きるのは、自分の人生を前進させる上できわめて重要だと思う。しかし、ワナビにはそれが難しく、かつ辛いのである。