杉本純のブログ

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島崎藤村を知らないとまずいか

こないだ、あるライターの珍妙なエピソードを耳にした。そのライターがまだ本格的にライターになる以前のエピソードなのだが、小説家の島崎藤村のことを知らず、「『ふじむらとうそん』って誰ですか?」と発言したそうなのである。島崎が抜け落ちて「藤村藤村」になってしまっていた、ということで、笑い話にされたと同時に、そのライターにとしては恥を晒す形になった。

そのエピソードを聞いて、しかし私はちょっと、心の中で首を傾げたのである。たしかに私のように文学に興味を持つライターであれば、島崎藤村は知っていて当たり前である。しかし、今のライターが文学の知識、なかんづく近代文学の知識の有無を問われることは、そういう種類の取材をするのでない限り、はっきり言って皆無だろう。それから、藤村ってたしかに普通は苗字だよね。。

漱石や鷗外、川端などとなれば、一般教養として名前くらい知っているべきかも知れない。ただし少なくとも私の肌感覚では、今のライターの仕事において、小説や歴史に関する分野の取材でない限り、漱石鷗外康成などの名前が出てくることはない。もっと時代を下った大江だってない。逆に三島や石原慎太郎の方が露出が多いので知られているし、最近なら朝井リョウ又吉直樹加藤シゲアキあたりがごく自然に知られているだろう。

このライターのエピソードは、広くいえば文化や歴史に関わる教養が必要、という観点では確かにそうだと思うが、最近の話題について情報を入れていることが必要、という観点なら、藤村など知っている必要は全然なく、どちらかというと上に書いた三島以下の人たちを知っていることの方が求められる。それは、担当する案件の性格にもよるのではないか。

ライターだって興味のないことは全然知らなくて当たり前である。まあもちろん、私は物を知らなくていいと言いたいのではない。そりゃあ藤村だって四迷だって鏡花だって花袋だって秋声だって、知らないよりは知っている方が良いに決まっている。ちなみに私は不動産会社の社員にインタビューをした時に初めてミース・ファン・デル・ローエを知った。恥をかいたわけではなかったが、以来、コルビュジエ、ライトと共にその名を記憶している。

今のライターについて思うのは、取材対象に関する知識が十分にないまま取材に臨まなくてはならない苦しさがあることである。昔のライターにもそういう問題はあったかも知れない。