杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

結果が全て。ブツを出す。

社会人として生きていて常々感じるのは、世の中は結果とか成果が全てなんだな、ということだ。自分が「頑張っている」ことを評価してほしいと思っているらしい人にしばしば出くわすのだが、頑張っていること自体は素晴らしいかも知れないけれども、それで評価されようと思うのは虫のいい話である。いくら頑張って田んぼや畑を世話しても、食べ物が収穫できなかったら食べられず、死んでしまう。頑張ったって成果が出なかったら駄目なのである。

スポーツや楽器が上手くなりたいんだったら練習する他なく、知識を増やして物を書きたいんだったら勉強するしかない。練習や勉強は努力であり、努力なしには何事も成し遂げられないだろうと思う。仕事や、仕事を通して成長することについて、根性主義や精神論を唱える人は少なくないが、要するにたくさん練習し、勉強した人が抜きん出るのはまず間違いないと思う。そして、もちろん勉強や練習という努力は「頑張って」するものだが、それをやったからといって他人に喜ばれたり評価されたりするとは限らない。評価されるには、その指標となるものを突破するしかないのである。

25mを15秒で泳げ、というテストがあったらそれを突破しない限りは合格できない。算数のテストで合格ラインが80点だったらそれを突破することでしか合格できないのである。いくら努力しても突破できなかったらそれまでなのだ。プールや算数は学校だが、社会でももちろん同じことであり、賞与査定、昇進試験、資格試験、などなど何でもそうだろう。もちろん、勤務態度などやや抽象度が高い項目については主観も混じるだろうが、営業成績などは数字で表れるから具体的で客観的である。

ろくに努力せず指標を突破できてしまう才人などもいるのだろうが、結果が出ているならそれで構わない。努力なしに前進し続けることは困難だと思うが、努力と結果はあくまで別物だと思う。

また、最近になって確信に至ったのが、相手に気持ちを伝えるには「ブツ」を出さなくてはならないということだ。例えば、感謝や謝罪というものは言葉で表したって駄目であり、何らかの形、つまり「ブツ」を出さなくてはならないということ。感謝は「ありがとう」、謝罪は「ごめんなさい」という言葉で表されるだろうが、それだけでは駄目で、それを具体的な「ブツ」で表すべきだと思っている。

金品を差し出せ、ということではない。金品でしか償えない場合はそれを差し出せばよいだろうが、大事なのは言葉に見合った「行動」だと思う。感謝の気持ちを表したいなら、「ありがとう」などと言うより相手が喜ぶことをしてあげる方が良いし、「ごめんなさい」よりも相手のためになることをしてあげる方が大事だろう。「ブツ」とは、そういう行動だと思っている。

結果が全て。ブツを出す。それが人間の社会の見えざるルールじゃないかな。ただし、結果やブツを出すことが必ずしも「正しい」とは限らず、そこが難しいところ。