杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

心理的自叙伝4 青春謳歌の欠如

愛知県の私立高校、三重県の私立大学を卒業した後に神奈川県の映画の専門学校を卒業して、それ以降は零細、中小企業でライターをやっている。以上がごく簡単な私の履歴なのだが、最近よく感じるのは、自分にはいわゆる「青春を謳歌した」経験が欠如しているな、ということ。プライベートや仕事で接する人を見て、そう感じるのである。

かなり前、西村賢太がインタビューを受けていて、芥川賞受賞時の「風俗に行こうかな」が話題になりネット界の住人からの人気を博したことについて、自分と彼らとの共通点があるとすれば、青春を謳歌した記憶がないことではないか、と語っていた。

このくだりはけっこう、考えさせられた。つまり、自分もそういう人間に違いないと思ったのである。

青春を謳歌した経験がない人は異性との恋愛を怖がる、と書いたネット記事を読んだが、そうかも知れないと思った。私が行った高校は男女共学だがほとんど男子しかいない、他に女子のみの定時制高校とその女子たちが働く工場を併設した、今思うとちょっと変わった学校だった。恋愛感情めいた気持ちは高校時には抱いた記憶がなく、女子と付き合うこともなかった。恋愛が怖い、というか苦手、という感覚は今もあり、上記ネット記事にはちょっと共感するのである。

また、男子校に通った男や女子校に通った女の異性への意識について、過去に聞いたか読んだかした。ホモソーシャルについても思い当たる節があり、それは私自身が女子のほぼいない学校に行ったことと無関係ではないかも知れない。

大学に入ってからは強い自己批判に陥り、ワナビをこじらせて、恋愛どころではなくなっていったように思う。映画学校に入ってからは神経衰弱の日々だった。そんな期間も、「青春」と言えば言えるのかも知れない。七転八倒したとは思うので、きっと青春だったのだろう。けれども、「謳歌」などという感覚からは程遠い気がする。

西村賢太を称賛した人たちのことはよく分からない。しかし私自身は、自分は青春を謳歌できなかった、恋愛や異性が苦手、といった事実や意識があるにせよ、そうではない人たちが眩しく見えることはない。いや、少しは羨ましさを感じるが…恨みを抱いたり、逆にそれで西村を激賞したりすることもない。

思うに、私の青春謳歌欠如の感覚は、恨み言しか出てこないようなひどいものではない。それはたぶん、「書く」ことを続けてきたからではないかと思っている。