杉本純のブログ

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王はヤクザか

最近読んでいる佐藤雅彦竹中平蔵『経済ってそういうことだったのか会議』(日経ビジネス人文庫、2002年)が面白くってしょうがない。経済の素人である佐藤が、プロである竹中からお金とか経済についてごく基礎的なことから教わる対談なのだが、なんというか、質問も回答も的確絶妙であり(質問も絶妙なのだ。少なくとも私はそう思った)、いちいち納得させられるのである。

面白くてしょうがない、絶妙だ、などと感じるのは眉唾だとも言える。しかし本書については今のところそうは思わない。

第3章は税金の話で、「ヤクザの『みかじめ料』と国の税金」という見出しの中では税金は結局ヤクザのみかじめ料みたいなもの、と竹中が話している。国は大義名分を並べながらお金を取って、ヤクザはそういうことはしないのだが、税金とみかじめ料の差はその程度のものだと言う。そして、ヤクザはその地域の私設警察だとまで言う。この辺りを読むと、国なんてヤクザみたいなもの、という感じがする。しかし面白いのはその後で、しかし王様の中にもヤクザのトップに立つ清水次郎長みたいな立派な人がいたんじゃないか、と佐藤が問うと、竹中がこう答える。

王様というのは、みんな贅沢ですから、武力で押さえつけたら今度は民衆から立派な王様と言われたくなるわけです。ですから武力の後は必ず次に、武力ではなく、王様の人徳で政治をしているのだという「徳治政治」という言葉が出てきます。しかしこれは単なる正当化であって、武力で人を脅しているから、そんなことが言えるわけです。

平和とか安寧はもちろん、「正しいこと」「立派なこと」なんてのも結局は武力を背景にしていることがよく分かる。

私はこのくだりを読んで、山本七平『現人神の創作者たち』(ちくま文庫、2007年)を思い出した。戦国時代を制した徳川幕府が、自らの正統性を証明するために朱子学神道を混淆しようとした、という本書の内容が、上の竹中の言葉と重なる気がしたのだ。