杉本純のブログ

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年賀状雑感

この年末は年賀状を急いで書いたが、書いているうちに自分の人間関係について色々と感じさせられるところがあって、なんとも言えない気持ちになってしまった。

まず、年賀状というのは一体どれほどの意味があるのだろうという疑問から、大きな徒労を感じた。年賀状の由来とか起源などはぜんぜん知らない私は、それでもこれまで何十年も、年に一回必ず多くの人に葉書を書き、出してきた。それ以外の時期に葉書を書くことなど、プレゼントの応募など以外ではほぼ皆無で、応募だって最近はスマホでできるようになっている。さてしかし、私が感じた徒労は恐らく、年末の忙しい時期に疲れる仕事をやろうとしたことから来る一種の苛立ちに似たものに過ぎず、年賀状は久しい知人を思い出したり、縁がつながっていることを確認したりする点で、立派に意味があるとは思う。

今一つは、やはり縁に関することで、年賀状を送る相手というのは、ある意味で、当人の人間関係のポートフォリオを形成しているのだ。今回、もう何年も年賀状を送っているだけで連絡などぜんぜん取っていない相手を、思い切って送付先から除外した。これは上述の徒労感や苛立ちゆえにそうしたのだが、考えてみれば、別にことさら連絡を取りたいわけでもない相手に無理して年賀状だけ送ろうとしたこと自体が徒労感や苛立ちを生んでいたんだろうと思う。たかが年賀状だけのつながりとはいえ、相手とは人間関係という糸で結ばれている。どうしてもつながっていたいわけじゃない相手のことは、新年を機に思い切って忘れてしまって、新たな人間関係を始める準備をすればいい。そんな風に思った。

また私はかつて、自分の家族の近況などを書く年賀状と自分の書き物とか思想に関することを書く年賀状とを分けて作っていたことがあり、年賀状を作るのに二倍の手間をかけていた時期があった。これなどは今思うとまさに全くの徒労だったのだが、二種類の年賀状を作っていたというのは、要するに私が外向けに二つの顔を持っていたことの証左だったと思っている。これは考えようによっては面白い現象で、対人関係において、この人には思想を言う、この人には言わない、という区別をしていたということだろう。むろん相手によって話す内容が異なるというのはあることだが、私はどこか自意識過剰だったというか、この人に私の心の中の考えを述べたらきっとドン引きされるから止めておこうなどと思っていたと思う。大企業の社長年頭挨拶じゃあるまいし、年賀状で大したことを述べる必要はないので、まったく無駄なことに時間を費やしていたものだなぁと感じる。もちろん、逆に気合いを入れて年頭宣言めいたことを年賀状に書いても構わないわけで、それでドン引きして逃げていってしまう相手については「去る者は追わず」でいいのである。