杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

勉強は人間の義務

私が小中学校くらいの頃は、勉強に熱心な子供は「ガリ勉」などと言われ冷やかしの対象にされていた。少なくとも「勉強すること」が尊敬の対象になることはなかったと思う。勉強よりも遊ぶことに夢中になっていたし、親や教師からの勉強に関する説教へのアンチテーゼとして、勉強ができる奴より友情に厚い奴の方がいい、とか、本当の勉強は学校の勉強じゃない、といった屁理屈も頭の中に少なからずあったと記憶している。

大学生の頃辺りから映画をやりたくなって、急にその勉強のための時間が惜しくなった。ただこの頃はまだ、学校の勉強なんて糞くらえ、といった考えがまだ残っていたと思う。どちらかというと、映画という藝術の精髄というか、映画をやる人間のあるべき姿勢というか、そういうものを会得して「映画の人」になりたい、という欲求がもっと強かった。

会社勤めをするようになってから、学校で学ぶ分野というか、一般的な教養を分厚くするのが大切だと思うようになった。リベラル・アーツとか、人文科学・社会科学・自然科学などという言葉を意識した時期もあった。しばらく経つと、総合的教養はもちろん大切だけど、自分が進む道の中ではとりわけ歴史と地理が重要だと考えるようになる。加えて、論理とか、物事を筋道立てて考えることとかが大事だと思うようにもなった。これらは明らかに、社会人として、他人(考えが合わない人も含めて)とのコミュニケーションをベースにして仕事を作り上げていかなくてはならず、そのために不可欠の能力だと考えるようになったことが原因としてある。

勉強への意識の変遷を振り返って思うのは、総じて、人間は幼少期から好きなことを好きなだけやるのがいいが、そこには必ずといっていいほど勉強が付随してくるから、人間生きていく上で勉強は不可欠だということ。学校の勉強が全てそれにプラスに働くかどうかは分からない。しかしマイナスになることはないんじゃないかと思う。ただ、勉強が親や教師から文字通り「強いられる」ものだった場合はマイナスになってしまうかも知れない。

また、人間には他人の気持ちを理解したり世の中の仕組みを知ったりする必要があることから、勉強は義務だとも思う。だから無知や怠惰は罪だと思っている。