杉本純のブログ

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小説家とパン屋と八百屋

瀬戸内寂聴山田詠美との対談集『小説家の内緒話』(中公文庫、2005年)の第二章「死」の中で、小説家は藝術家であって他の職業とは違う、と言い、過去の宇野千代との会話を紹介している。

宇野さんがあるとき、私の小説を読んでくださって、「瀬戸内さん、あなたは小説家を特別の職業と思ってる。そこがまちがってる。小説家なんて、パン屋や八百屋と同じよ、そう思いなさい」といってくれた。でも幾日も考えたあげく、いくら宇野さんの注意でも、やっぱり、小説家は、パン屋や八百屋とはちがうというのが私の結論でした。

瀬戸内は上記の前に、「芸術家は偉いとか、特別な人間だとか思ってるわけじゃないのよ」と話しているが、引用箇所と併せて読むと、小説家や芸術家は特別ではなくとも異質だということかなと思った。

果たして、小説家というのは世の職業の中でことさら特異な存在だろうか。

なるほど小説家には世にも稀な天才的な人というのは過去に何人もいたし、常軌を逸した振る舞いをした人もいた。そして、画家でも音楽家でも詩人でもそういう人はいた。とすると藝術家全般は特異な存在だと言えそうな気がする。

けれども、政治家や実業家・経営者、あるいは宗教家などの中にも天才的で特異な才能を持ち、偉大な実績を残した人は多数いたのである。同じように、学者、クリエイター、藝人、職人の他、趣味の領域ですごい才能を発揮した人も少なくない。アスリートだってそうである。

だから料理人だってそうだし、ひいてはパン屋や八百屋の中にもそういう人はいただろうと思う。

小説家や藝術家が世の中に何を提供するのかといえば、作品を通して娯楽だったり慰安だったりを人びとに提供するのだろう。他の職業の人も、それぞれ世の中や人びとが求めるものを提供して生きている。

いったんその「道」に入ったら死ぬまで抜けられない、というのは理解できる。そうなら小説家はまさにそうなのだけれど、もちろんそういうのは他の職業にもあり得ることじゃないか。一方で『ナニワ金融道』の青木雄二のように、たっぷり稼いだら早々に引退して後は悠々自適に暮らす人もいて、とすると青木にとって漫画は「道」ではなかったのだろう。

会社をはじめとする勤め先での仕事と、自分の一生の仕事とでもいうような「道」は違う、ということじゃないかと思った。