杉本純のブログ

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創作雑記6 小説は風景に辿り着く

抽象的なタイトルだが、小説というのは、ストーリーを進めた末にどう終わるかというと、何らかの風景に辿り着くのではないか、という漠然としたイメージを、小説を書く過程で抱いたのだ。

小説が終われば主人公の物語が全部終わるわけではない。あるいは小説で主人公が死んだとしても、世界は続くわけなのでその後の話が存在しないわけではない。しかし、どこかで区切りをつけなくては小説は永遠に続いてしまうわけだ。ではどこでどう区切りをつけるかというと、それが何らかの風景に辿り着いたところ、なのではないかと思うのだ。

やはり何らかの行動が一つの帰結を迎えたところで小説を締めくくるのが一般的だろう。芥川龍之介羅生門』の「下人の行方は、誰もは誰も知らない。」など、描写ではなく叙述で締めくくっている点でその一例と言えるのではないか(なお芥川がこの締めくくりにしたのは初出ではなくもっと後)。谷崎潤一郎痴人の愛』の、主人公がナオミに(表面的には)負けて、「ナオミは今年二十三で私は三十六になります」として締めくくるのも、そうだろう。

また、例えば佐伯一麦の長篇『渡良瀬』(新潮文庫、2017年)は、最後は渡良瀬遊水地の野焼きの場面になっている。小説では主人公のさまざまな悩みや課題が提示されるが、野焼きはべつにその解決になっているわけでもなんでもない。単に主人公の眼前に出てくるだけなのだが、これが『渡良瀬』という小説が到達した風景なのではないかと思う。ただ、そういうのは終わり方としてはやや強引なようにも感じる。

べつに実際の風景を描写しなくてはならないわけではなく、何らかのステージに辿り着いた、ということが読者にイメージできれば、その締めくくりは効果を出したと言えると思う。

そういう意味で、小説は主人公の行動を通して新しい世界を見せる、ストーリーは、新しい風景に辿り着くまでの旅路なのだと思う。