杉本純のブログ

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「いつか・あそこ」と「いま・ここ」

ワナビは「いつか・あそこ」を夢見ている。「あそこ」とは比喩で、具体的な場所ではなく、まだ自分はなれていない職業や立場のことだ(もちろん下ネタじゃない)。いつか俺は作家になる、ミュージシャンになる、俳優になる…などなど。しかし、これが長いこと「いつか・あそこ」のままだと、早く実現したい気持ちが苛立ちに変わり、焦燥に駆られる。時間はどんどん過ぎる。周囲の人は目標を達成し、人生を進展させる。けれども自分の夢はいつまで経っても「いつか・あそこ」のままで、現実の自分は一歩も進んでいない。やがて劣等感と不安から自己否定に陥り、何をやっても無理なんじゃないか、みたいな気持ちになってくる。一方で対人関係では「精神勝利法」を使って、俺は実力なら周囲の人に負けてないとか、俺の方が高尚な理想を持っているんだ、とか考えたりする。

こうなるともう立派な「こじらせ」である。「いつか・あそこ」にある夢は現実の自分を支配して、自分を下等で無能な人間だと思い込ませ、一方で周囲の知人友人を軽蔑させる。不安と焦燥はなくならず、対人関係はカチコチのまま。ワナビの道に入り込んだばかりにこういうことになるのだが、誰も本人を助けられないのでけっこう深刻である。

人間はワナビになっていいし、ワナビを脱出しなくてはならないわけではない。しかし、ワナビをこじらせていて苦しいのなら、そんな自分を救い出すのは自分しかいない。「いつか・あそこ」のために消耗している自分を自分で論破、説得して、自分の気持ちと生活を「いま・ここ」に取り戻さなくてはならない。

夢はどれほど「いつか・あそこ」であってもいい。例えば「SDGs」ってのは2030年の到達を目指す目標だが、理想はいくら遠大でも構わない。あるいは理想のために命を賭けたり、命を捨てたりする人もいるが、本人が悔いがないならいいのだろう。また、一方で人間には「いつか・あそこ」という理想やら夢やら目標やらが必要だし、ここまで文明が進化し発展してきたのも「いつか・あそこ」があったからこそではないか。ただ、その「いつか・あそこ」に支配され、「いま・ここ」が押しつぶされてしまうのは辛いことだ。

ちょっとワナビのことから離れてしまったが、要するにそういうことで、作家になる、ミュージシャンになる、俳優になる、という夢は、その程度がどれだけ壮大であっても構わない。ノーベル賞を獲る、武道館でライブをやる、アカデミー賞を獲る…。けれども、そういう「いつか・あそこ」が自分の現実の生活から遊離してしまい、それに向かって進んでいる実感がなくなってしまうと、理想と現実のギャップが大きくなり過ぎて、こじらせてしまうのである。

大事なのは「いま・ここ」である。「いつか・あそこ」をぼんやり頭の片隅に持っておきながら、常に「いま・ここ」から進んでいくことが重要だろう。