杉本純のブログ

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課題の分離

アドラーの心理学の本は読んだことがないが、アドラーは「課題の分離」ということを言っているようで、自分が対処するべき課題と他人が対処するべき課題は明確に分けるべき、という考え方らしい。例えば、自分が会社を辞めると言った時、良い人材が不足してしまって困るので辞めないで欲しい、というのは会社側の都合であって、人材がいなくなって困るのは会社側の課題なんだから自分がその課題に対処する必要はない、ということ。

当たり前のことだと思うが、Twitterなどでもこの「課題の分離」について言っている人は多く、単にアドラーが流行っているからというだけではなくて、自分と他人の課題を分離できていない人は本当に多いのだろうと思う。かく言う私も、きちんと分離できているかどうか自信はないが。

この問題は、多分に人間関係に関わってくることのように思う。思い出すのは、私のかつての上司である。

私はその上司に、ある人物を紹介したのだが、それはある一つの仕事に関わる紹介であり、私が紹介した人と上司はその仕事をきちんと形にして終わらせた。しかし、その仕事を進める過程で両者が意気投合し、まったく別の、スケールの大きな仕事の話を始めてしまった。私はそっちの仕事についてはまったく関与していなかったのだが、ある時、そっちの仕事がぜんぜん形にならず、それどころか上司とその人との仲が悪化するに至ってしまったのだ。上司はその人に恨みすら抱いていたようで、それは仕方ないご愁傷様といったところなのだが、あろうことか上司は私にその怒りを向け、「元はと言えばあのゴミ野郎を連れてきたお前が悪いんだ。責任を取ってもらうからな」と言い出したのである。

これは言いがかりもいいところで、私は最初の仕事において橋渡し役は務めたが、そこから新しい大きな仕事を始めたのは上司の勝手である。私には関係ない。その人との関係が悪化したのは上司の課題であって私の課題ではない。

その上司はどうやら…いや間違いなく「モラル・ハラスメント」をやる人であり、私が罪悪感を持つよう仕向けて私を支配しようとしたことがしばしばあった。上記の逸話についても、つまり自分の課題を他人の課題にすり替えようとしたわけで、俺は被害者、悪いのはお前、と私に言おうとしたのである。

上司は明らかに「課題の分離」ができていなかった。とすると、モラル・ハラスメントをやる人は「課題の分離」ができない人、と仮定することができそうで面白い。

一方、私自身も「課題の分離」ができておらず、上の逸話に限らず、何かと上司から責任をなすりつけられ、ああ俺が悪いんだ何とかしなくては、と思っていた。

例えば、私はその会社で相当に粉骨砕身して頑張っていた「積もり」だったが、その上司は私の働きに満足していなかった。それで上司はある時、「俺はお前を信用して雇ったのにぜんぜん駄目じゃないか。お前は俺を騙したんだ。今まで払った給料をまとめてお前に請求するぞ!」などと私に言ってきた。もちろん本当に請求してきたりはしなかったし、その言葉の後ろには、私にもっと頑張って欲しいという期待があったのかも知れない(なかったとは言い切れない)。とまれ、私は罪悪感に苛まれ、自分を責め、否定し、鬱病のような状態になっていった。本当に、あの時期の精神状況は、思い出すだけで辛くなる。

上司を満足させられない、これは私の課題である。しかし、部下(私)が思い通りの働きをしてくれない、というのは上司の課題であって私の課題ではないので、騙したとか給料分の金を請求するなどというのはちゃんちゃらおかしい発言だろう(もちろん私は就業規則に反することをしたわけではないし、自分で言うのも何だか、自分なりにかなり会社に貢献した積もりだった)。

「課題の分離」ができていない人はおおむね、馬鹿で感情的でコミュニケーション障害みたいなところがあるのではないか。昔の私はまさにそうだった。今もそういう面が残っているかも知れない。勉強して知的になり、他人ときちんと向き合うことを覚えれば、自ずと「課題の分離」ができるようになると思う。

例外があるとすれば、親子の関係か。親は子が抱える課題を時に我が事として考えなくてはならないと思う。子供が自分の課題に自ら立ち向かえるようになるまでは、手伝ってやらなくてはならない。少しずつ、子供の課題を子供に立ち向かわせていくのが良いと思う。