杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

何のために勉強するか

こないだ後輩のライターに先輩として講義する機会があり、その最後に、毎日勉強をしなさいよ、と煩く感じられない程度に伝えておいた。

勉強せよと言われると、やはり多くの人はストレスを感じると思う。私の中学生の頃の国語の先生は、「勉強」より「学習」という言葉の方が好きだと言い、なぜなら勉強には「強いる」という言葉が入っているから、と言っていた。なるほど勉強せよと言われてストレスを感じるのは、一つは相手から「強いられて」いると思ってしまうからかも知れない。しかし、やはり最たる理由は、勉強というのは本来自分からするもので、人から言われてするものではないからだろう。だから、学習しなさい、と言われても人は同じようにストレスを感じる。

さて、勉強は毎日やらなくてはあまり意味がない。ときどき思いついたように勉強をするのは誰でもできるが、毎日勉強し続けなくては覚えたことも頭から消えてしまうだろう。とはいえ、毎日机に向かい続けるのはなかなかどうして、楽ではない。特に労働者として日々働いていると、労働することの方が生活の中心になっているので、余った時間を勉強に費やすのは大変だと、私は体験から思う。だからせめて、一日ちょっとだけでもいいので、机に向かって勉強する習慣だけは途切れさせず持ち続けたいものだ。

どうして勉強を長続きさせるのが大変かというと、勉強の成果を出して達成感や充実感を得るのが難しいからではないか。

学校などの勉強であれば、テストで良い点を取る、などは成果の一つだと思う。私の知っている人が、先日あるテストで満点を取ってとても喜んでいたが、そういうことがあるともっと勉強したくなるものだ。しかし普通の大人は学校もないしテストもないから、仕事で良い成績を出す、などが成果になると思う。要するに、自ら時間を作って努力して、それが何らかの喜ばしい結果につながると、達成や充足を覚えるのだ。

私はこれまで、インプット(調べる)をしてアウトプットをすること(書く)が楽しいと思っていたが、それはもちろんそうなのだがそれだけでは十分ではなく、アウトプットが喜ばしい結果につながってこそ本当の達成や充足があるのではないか、と最近は思うようになってきた。喜ばしい結果とは、金を得ることかも知れないし、名誉、地位…いろいろあるだろう。そこには当人の人間関係が、直接ないし間接に関与している気がする。