杉本純のブログ

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労働集約型ビジネスとクリエイター

「デジタル土方」という言葉があるのを最近知った。かねがね、システムエンジニアとかカスタマエンジニアの就労状況は正直に言ってあまり良いものではないと思っていたが、そういうのを端的に表す俗称がやはりあった。当人が自虐的に用いる例もあるようだ。

ライターやデザイナーなど、出版業界の片隅の編集プロダクションで働くクリエイターにも、そういう俗称があるかも知れない。恐らくあるだろう(私は聞いたことはないが)。

それは当然だと思う。編プロという労働集約型ビジネスの会社で働いていると、自分は下層の人間であると感じやすいだろう。自分なんて、会社の売上のごく一部を稼いでいるだけのごく小さな歯車の一つに過ぎない、クライアントの要求を形にする作業員でいくらでも代えのきく人材だ、などなど。

私の知人はフリーライターをやっているが、どうも見ていると、根深いところである種の暗さ、卑屈さを抱えているようで、それが言動の端々に現れている。私は、その人がクライアントや編集者からあまり良い扱いを受けていないのではないかと考えたことがあるが、四十歳を過ぎて六畳のアパート暮らしをしているし、少なくとも金銭的に満足できる状態ではないのは間違いないと思う。

そういうクリエイティブ職の人が、労働集約型ビジネスの中で働いている現状を嘆いたり、地位と境遇の改善を目指して意見を述べたり活動したりしている様子は、ネットの記事などでよく見かける。けれども、どうも私はそういう取り組みをしばしば空しく感じる。クリエイティブに限らずどの世界でも、「その人でなければならない仕事」でない以上、仕事の単価は上がらないだろうし、扱いも良くならないだろう。そんな仕事は一握りしかなく、大企業に勤めて高い給料をもらっている人も仕事はキツいし自殺したくもなるのである。むしろ、クリエイターという立場は報酬も扱いも当人が思うほど悪くはなく、サービス業や肉体労働などに従事している人に比べたら境遇はかなり良いのではないか。

それに、労働集約の中で働くのが嫌ならそこから出ていけば良いわけで、誰もその自由を制限していない。

大変じゃない仕事などない。大切なのは、寝食を忘れて打ち込むくらいその仕事が好きかどうか、本質を突き詰めつつ応用していくために努力できるかどうか、ではないだろうか。