杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

「〇〇青年」

かつては「文学青年」という言葉があり、実際にそう呼ばれる人がいたようだが、今はほとんどいないのではないかと思う。一方で、「宗教青年」「哲学青年」などの言葉があるようだ。ところで、この「〇〇青年」とは何なのか。

恐らくそれは、「〇〇」にアイデンティティの拠り所を求める青年、つまり主に青年期の男だろうと思う。〇〇に対し、趣味などの範疇を超えていれ込む、言わばワナビである。ちと抽象的だが、そういう人は、〇〇を自分のものにできるかどうかに自我の確立の成否がかかっているため、必死であり、悲壮さを帯びている。極めて個人的なことで悩み苦しみ、勝手に必死になっているため、周囲の人からは「痛い奴」と映っていることが多い。

ちなみに私は学生時代に「映画青年」で、脚本家兼映画監督として世に出ることに賭けていた。そうでなければ自我が崩壊する、くらいに感じていただろうから、毎日、不安だったし、神経衰弱に陥っていた。ここまで来ると、映画はまったく趣味などではないのである。

けっきょく映画の道を行くことはできず、映画に費やした数年間は水泡に帰し、挑戦は蹉跌した。精神的に尾羽打ち枯らし、こんどは「文学青年もどき」に変化(へんげ)して、中途半端に小説に打ち込むようになった。

そういう次第なので、私は映画や小説が「趣味」という人とは、ほぼ話が合わない。お互いに映画や小説に強い興味を持っているのに、話が合わないことが多い。その要因は恐らく、映画や小説をカジュアルな感覚で受け止められないからだろう。

「〇〇青年」は、一種の心の病気だと思う。文学、映画、宗教、哲学…それらを通した「自分探し」の迷走。「これ!」というものにぶち当たるまで、不安は拭えない。しかも、〇〇と自我の問題の解決は、心の深いところでの納得が不可欠なので、他人は家族であっても容易に介入できない。これが厄介である。しかも、誰もが「これ!」を見つけられるとは限らず、見つけられなかった人は、不完全燃焼を抱えながら、それでも生きていくしかない。

ただ私は、健全なまともな人間であれば、たいていは青年期にそうした自我の危機に遭遇すると思う。安易に世の中に合わせて生きていくことができないのが、まともな人間だと思っている。