杉本純のブログ

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書くことでしか前進できない

文學界」2018年12月号の特集「書くことを「仕事」にする」に、エッセイスト・犬山紙子の寄稿「書くことを仕事にしたいと言えなかった日々から」がある。

犬山は1981年生まれで就職氷河期に当たっており、夢に冷めている周囲の人たちに裏で揶揄されまいと、自分は夢など持っていないという言動を取り続けたが、そういう風に話す自分を正当化するために「自分で自分を洗脳」していた、と書いている。

私は1979年生まれだが、就職氷河期ながら影響をあまり受けずに職に就くことができた。しかし犬山の言う、周囲の冷めた雰囲気はたしかにあったと思う。ただ私は少なくとも二十代の終わり頃までは「夢」を持ち、揶揄されてもそれを語っていた。けれども、それとは別の色んなところで、傷つきたくないために本音の通りに行動せず、本音とは逆の振る舞いをしている自分を「俺はこうなんだ」と洗脳しようとしていたことはある。女を好きなのに嫌いだと思おうとする…などである。ちなみに今は自分が物書き志向であることを話す機会がほとんどない。そういう話になれば、普通に話せる。

さて犬山は大学時代にフリーペーパーの手伝いをし、そこで出会った編集長のお陰で「呪い」が解けたと書いている。とても幸福な縁だったのだ。

私も専門学校時代にフリーペーパーの仕事を手伝い、犬山が書いている「フリーペーパーがたくさん出ていた時代」の雰囲気はわかる(時代は犬山よりちょっと下るが)。

私がフリーペーパーを通して出会った縁は「悪縁」だった。ただ、書くことが好きで楽しい、という原点があったからこそここまで来られたと思う。それは犬山も同様のようだ。物書きは書くことでしか前進できないのだ。