杉本純のブログ

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害なき悪、益なき善、害ある善。

レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』(岩波文庫、1954年)の上巻に、「自分に害なき悪は自分に益なき善にひとしい」という言葉がある。私はこれを「松岡正剛の千夜千冊」で知ったのだが、当時はなんだか深遠な言葉だと思った。

要するに、善だろうと悪だろうと、自分に直接関係がなければみな同じことである、といった意味だろうか。よその国で起きた犯罪や善行は、それがどれだけ大きかろうと小さかろうと、自分には関係がないという点で等しい、ということか。だとしたら、たしかにそうかも知れない。

この言葉を元に、ちょっと考えてみたことがある。それは、では「自分に害ある善」とは何だろう、ということだ。そして、それは善のふりをした悪、つまり偽善ではないかということである。

例えば体育会系の暴力指導、「お前のためだ」などと言って厳しくする教育、などである。これらはいずれも、表面的には善のツラをしている。しかしその実、指導教育する側だけの益になっていて受ける側には苦痛でしかない場合が多い。これはやはり、悪ではないか。

したがって、「お前のためなんだ」と言いつつこちらに不利益なことばかりしてくる相手は、つまり自分にとって悪なのだから、そういう手合いとはとっとと縁を切るに限ると思う。ちなみに私もいくたりか、そういう偽善者の偽善を見抜き、指摘し、退けてきた。

ちなみに、「益ある悪」とはどういうことかについても考えてみた。それは恐らく、耳の痛い叱責や指摘のたぐいではないかと思った。