杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

精神の貧困

スーザン・ショフネシーの『小説家・ライターになれる人、なれない人』(同文書院、1998年)は、過去の作家や藝術家などの言葉を引き、それに関するショフネシー自身の考えも述べて、小説家やライターの執筆を促す本だ。

その中にリルケの言葉が引用されている箇所があるのだが、私はちょっと考え込んでしまった。

「もしもあなたの生活がつまらないものに思えても、自分が書けないのをそのせいにしてはなりません。そうではなくて自分を責めるのです。自分はまだそこから豊かなものを感じられるほどの詩人ではないのだと。というのも、創造者にとっては貧困というものも、つまらない場所もないからです。」

私は、学生時代にはリルケの言葉のような考えを持っていたが、今は「貧すれば鈍する」を確信している。だからこの引用文を読んだ時は、それは違うだろうと思ったのである。

しばらく考えた。たしかに藝術家でも作家でも、あるいは実業家、経済人などでも、若い頃にとてつもない貧乏をしながらも夢を捨てずに頑張り、ついに成功を手にした、といった偉人伝の類いはよく見聞きする。しかしそれは結果としてその人が成功したから偉人伝になっているのであり、多くの人はそんな風にはならず、けっきょく貧乏のまま死んでいったのではないか。現実はもっと悲惨な、死屍累々たるものなのではないか。そんな気がしている。

貧乏を楽しむ、つらくとも冗談を言って笑い飛ばす、何も持っていなくとも周囲の風物に美を見出す、などといっても、限界があるだろう。そんなことができたとしても、それはやはり結果に過ぎないのであって、たいていの人はそんな逆転の発想や行動などし遂げられずに終わっていくのだと思う。

とはいえ、こうも感じる。会社も仕事も面白くない、通勤電車に乗るのが嫌でしょうがない…そんな風に思っていたとしても、日常の風景のわずかな変化や、家族、同僚との会話の中に小さな喜びを感じることは、やはりある。それはまた、「創造」を花開かせる、ささやかな端緒であると、言えなくもない。

だからリルケの言っていることは正しいのだ。ただ「貧すれば鈍する」も、やはりゆるぎない真実だと思う。

したがって、いくら貧乏でも、ものをじっと見る、じっくり聞く、ゆっくり味わうことのできる心の余裕を持ち続けていれば、そこから創造していくのは不可能ではない。しかし、精神が貧困に陥ってしまうと、まず創造していくのは無理。「貧すれば鈍する」の「貧する」は、精神が貧することを指すのだと思う。