杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

佐伯一麦の開眼

佐伯一麦の『ショート・サーキット』(講談社文芸文庫、2005年)は、佐伯の初期中短篇作品を編んだもの。「海燕」新人賞を取ってデビューした「木を接ぐ」(1984年)から「木の一族」(1994年)までの間の計5作品が収録されている。

そのあとがき「『ショート・サーキット』の頃」には、佐伯が自身の「電工手帳」に記した日誌が抄録されているのだが、これが面白い。

佐伯は日誌を書くことを一種の小説修行にしていたようで、楽ではない電気工事や配電盤製作の仕事をする傍らで自分の文体(のようなもの)を会得しようと格闘していたのが窺える。

七月半ばから、二ヵ月半というもの執筆は滞りっ放しであった。できたのは、以前からの冒頭三十枚に手を入れた物と、構想二種類のみ。書く位置が最後まで摑めなかった。電気工の日常の描写にしても、思い付き以上の表現を得るのが、どんなに困難なことであるのか「端午」で痛感させられた。これから、この日録で、その修練を積みたいと思う。デッサンを描き溜めること。それが今、自分には必要だ。

小説のかたち依然見えず。F工業向けの設計変更になった制御盤を仕上げた後、午後九時にあがる。勤務中、「ショート・サーキット」のディテールをしばしば頭に浮かべる。現在の手持ちの材料で、ディテールが一番豊富なのはこれしかない、と感じる。

「ショート・サーキット」のメモを取る。「私」、「おれ」、「彼」と試してきた主人公の人称を「かれ」とすることで、出だしの文章がようやく摑めた。

「ショート・サーキット」の書き出しを練る。エピソードは充分あるのだから、後はそれらを繋ぐ話法を見付けることが肝要か。K養魚場向け自動始動盤の太線を張る。身体がしんどい。

四時半起床。外はうっすらと地表をおおう程度の積雪。雪はやんでいた。「ショート・サーキット」書き接ぐ。細部に拘りすぎないよう自戒する。時間の進むのがはやいことを恨めしく思う。

「ショート・サーキット」に取り掛かる。昨晩書いた出だしを読み直し、このままでよい、と感じた。主人公独りの意識を追うだけでなく、周辺の人間の描写も自然に折り込めそうな文体だ。構成を考えながら、三枚ほど清書。深夜まで、終日執筆。

小説の世界をどのように構築していけば良いのか、手探りで求めている様子が如実に伝わってきて興味深いし、参考になるし、闘志もわいてくる。

抄録の最後の方には、朝目覚めた時には「「ショート・サーキット」執筆の腹づもりが完全に固まっていた」とあり、もうばっちり開眼したかのようだ。シモーヌ・ヴェイユを引き合いに、労働の美しさを描いていこうという決意表明めいた言葉もある。テーマと題材とそれにふさわしい語りの在り方をとことん追求した結果の自信なのだろう。